嘉助の覚悟 2014年1月28日

今年度最後の企画展「天誅組の変150年展」が始まりました。

今回展示できなかった史料で、どうしてもご紹介したいものが1点あります。
天誅組に参加し、捕らえられ刑死した安岡嘉助に関するものです。

嘉助は文久2年4月、大石団蔵・那須信吾とともに参政の吉田東洋を暗殺し、逃亡して京坂方面に潜伏します。翌年、嘉助と那須信吾は天誅組に加わりますが、この史料は大和に出発する直前の嘉助に会った兄・覚之助が、その様子を土佐にいる父・文助に知らせた手紙です。

覚之助は、何事かを起こそうとしている動きがあることを知り、それに加わろうとしている弟に、どのようなもくろみか知らないが成功は難しいといさめます。
嘉助はこのように答えます(あえて原文を引用します)。

「早や衆に盟し候ことニテ、いまさら論弁致し候ひテも武士の意地も立ちかね、且、彼等すでニ死すべき処ヲ[虫損]久しく潜伏、よほど鬱屈の趣きニつき、たとひ賊名ヲ取り候とも、もはや約したる事なれば是非もなし。」『中岡慎太郎全集』P365

(皆に約束したことだから、いまさら議論するのは武士の意地が立たない。彼らも既に死すべきところを潜伏し、鬱屈しているので、たとえ賊名を着せられても加わるつもりだ。もはや約束したことだから仕方ない。)

嘉助の決意を知り、覚之助も「こうなれば死に所を得させたい。苦心して説得したけれど、これ以上は無益だ。どうか嘉助のことはあきらめてくれ」と、父に書き送っています。

この史料を読んで驚いたのは、嘉助は勝算が低いと知りながら天誅組に参加したということです。「是非もなし」という表現に、嘉助の心情がよく表れています。おそらく藩の重役を暗殺して逃げたときから、嘉助は自分自身の命を長らえない覚悟をしていたのでしょう。それを理解して見送った兄・覚之助の心情は、どのようなものだったでしょうか。

手紙の続く部分では、二人が打って変わって笑いを交えながら酒を酌み交わし、嘉助が辞世の歌を詠んだと書かれています。この辞世は『維新土佐勤王史』掲載の嘉助の辞世とは異なる歌です。

なげかじな長き別れの今日とてももと大君の御為なりせば

残念ながらこの史料は現在行方不明とのことで、展示品のなかにはありません。今はここでご紹介するのみですが、いつかどこかで原史料に出会えるのを期待しています。

吉田東洋を暗殺した三人のうち、ひとり天誅組に参加しなかった大石団蔵は、のちに薩摩藩士の養子となります。その後留学生としてイギリスに渡り、数学や機関学など最新の学問を身につけて帰国、教師となって明治の世を生きました。

団蔵の数奇な人生についても、いずれご紹介したいと思います。