中岡慎太郎旧邸 中岡慎太郎遺髪埋葬地

◆安芸郡北川村柏木
◆土佐くろしお鉄道奈半利下車、奈半利から村営バス・長山橋西詰下車、徒歩10分

中岡慎太郎旧邸高知市より国道55号線をほぼ60キロ東に行けば奈半利川だ。川を渡るとすぐ、北川村役場へ3キロ、中岡慎太郎館へ7キロの案内板がある。慎太郎館方面へは、ここからタクシーか村営バスを利用するかだ。
国道を左折し3キロほどで北川村役場前を通過する。あとは案内板に従い奈半利川に沿って行けば長山発電所がある。発電所前から右手前方にある橋の向こうに慎太郎館や生家のある柏木の集落が見える。あとはそこを目指せばよい。国道からは案内板通り7キロの道のりだ。
中岡慎太郎館前の駐車場の横には「中岡慎太郎と史跡案内」板があり便利だ。ここには中岡慎太郎の復元生家や、慎太郎の遺徳を偲ぶ中岡慎太郎館、そして慎太郎遺髪埋葬地、慎太郎記念碑、慎太郎の生涯を記した大型モニュメント、そして慎太郎少年が勉学のために朝夕越え、そしてまた脱藩の時も越したという向学の道、更には慎太郎が飛び込み水泳したという岩と渕など慎太郎に関る多くのものが点在し、長時間慎太郎に思いを寄せることのできる場所だ。
慎太郎館は94年4月、慎太郎の生きざまを史実に基づいて鮮烈に再現することを目指して完成させた資料館だ。ここに入館し慎太郎に関する概要を把握して周辺をめぐれば慎太郎への接近が容易だ。

中岡慎太郎慎太郎は坂本龍馬と並ぶ幕末の志士だ。北川村の庄屋の家に生まれ、間崎滄浪の塾で尊王論を体得し、土佐勤王党にも加盟する。文久3(1863)年8月の政変後に脱藩し長州に身をよせた。禁門の変や四国艦隊下関砲撃事件などでも活躍した。その著『時勢論』では、幕府を武力打倒するより外に維新はないと、維新への道を説いている。
幕府の第2次長州征伐をひかえ窮地にたつ長州と薩摩との連合を推進し、 特に京都を追われた五卿など尊攘派公卿に接近し、慶応2(1866)年には薩長同盟成立に尽力しこれを実現させた。龍馬の海援隊に対し、陸援隊を組織し、板垣退助らに働きかけ、 薩土密約により土佐藩論を討幕に一転しようともした。しかし慶応3(1867)年、京都河原町近江屋で坂本龍馬と共に暗殺された。その生家は慎太郎館から、芝生やカラー舗装で整備公園化された中を下ればすぐそこだ。昭和42年に、発見された中岡家の見取図をもとに、当時の庄屋の家によく見られた格式の高い鉤形の肘屋建築様式に復元された。屋根は藁葺きで、軒には瓦が葺かれている。室内は8室に仕切られ、表庭は築地と青竹の塀で囲まれている。裏には少年時代よく登ったと伝えられるナツメの木も最近まであった。
慎太郎館の前方にある烏ヶ森越登口の碑の横の石段を登ると、そこに記念碑と中岡慎太郎の生涯を記した大型モニュメントがある。

記念碑とモニュメント碑は立派な基台にたつ自然石で、その背後のモニュメントは20メートルにもおよぶ長いものだ。慎太郎の生涯が詳細に刻記されている。昭和63年4月、中岡慎太郎を表舞台に出す会、中岡慎太郎先生生誕百五十周年記念行事実行委員会によって建立されたモニュメントだ。
慎太郎館後方150メートルほどのやや上方にある松林寺には中岡慎太郎遺髪埋葬地もある。慎太郎館からは案内板もあり近いので参詣すればよい。山門をくぐると境内の左手奥に大木を傘に墓標が見える。大きな中岡慎太郎先生遺髪埋葬之地とする墓石と、その横に妻兼、そして父小伝次、母うし、姉京のものも並んで建っている。昭和59年11月、中岡慎太郎先生顕彰会によって建てられたものだ。中岡家の墓地は高知市潮江山にあったが、集中豪雨によって崩れ、薊野に改葬されるが、そのうち旧墓石5基をこの地に移したものという。

中岡慎太郎遺髪埋葬地「秀才と呼ばれた慎太郎、農民の心の痛みのわかった慎太郎、天下の志士と渡り合った慎太郎、故郷を捨て、死を賭してまで維新回天に命を燃やした慎太郎、文武をきわめ、激動の時代を己の信念通りに生き抜いた彼の気骨が、夢が、喜怒哀楽が、今ここに奇跡のごとく蘇る」と、北川村の慎太郎によせる想いは大きい、慎太郎に関る村主催のイベントも盛んだ。