龍馬の写真についての研究

卒論で坂本龍馬の写真について研究しているんですが、資料だけではわからない事がたくさんでてきたので、以下の質問に回答下さい。
(1)坂本龍馬の写真を見て、なぜこの人が「坂本龍馬」だとわかったのか?いつ、どこで、誰が言ったのか?そういう手紙は残っているのか?
(2)龍馬の写真は全部で何枚あるのか?何歳から何歳までの写真が多いのか?どこどこで撮影された、という定説が出てきた理由は?
(3)龍馬が何度も、何枚も撮る目的、きっかけ、なんのために撮ったのか?みんなに配っていたのか?なぜ長崎県まで行って撮影したのか?龍馬は写真の代金をどうしていたのか?
(4)龍馬の写真は元々どこにあったのか?誰が持っていたのか?いつ頃発見されたのか?
(1)
いつ、どこで、誰が言ったかという質問に答えるのは難しいと思います。この写真はかなり以前から確認されている写真で、昭和3年に桂浜に銅像が建立された時もこの写真をモデルに製作されています。今、当館で簡単に見ることの出来る本を開いてみると、1912年に発行された『維新土佐勤王史』(瑞山会編)や、龍馬と慎太郎の没後50年祭(1917年)の冊子にも掲載されていますし、おそらくそれ以前の本にも掲載されていると思いますので、いつ、どこで、誰が、ということなく、龍馬の写真ということは自明のことだったのだと思います。当時は維新の志士で存命の人が何人もいました。特に、土佐藩出身の田中光顕は龍馬たちが暗殺された現場に真っ先に駆けつけた人でもあり、当然龍馬と交流のあった人ですが、大変長生きをしていまして、1939年(昭和14年)まで生きていました。銅像の製作時にも関わっていましたし、瑞山会の筆頭で『維新土佐勤王史』にも関わっていました。この瑞山会には明治4年に龍馬の家を継いだ坂本直(龍馬の甥・高松太郎)も参加していました。この人は海援隊士で、1898年まで生きていました。こういう人たちが龍馬の写真として色々なものに掲載していた写真ですので、疑う余地はないと思います。手紙は残っていません。

(2)
何枚かという問いに答えるのは難しいですが、何種類かということなら6種類と言えます。どういう違いがあるかと申しますと、例えば福井で撮られた説のある写真ですが、名刺代わりに人にあげてたものなので、現在は下関市立長府博物館と東京龍馬会が同じ写真を所有しています。立ち姿のものも、ガラス原板は高知県立歴史民俗資料館が所有していますが、鶏卵紙に焼いたものは2枚以上確認されています(しかし、この鶏卵紙の写真は現在行方不明です)。鶏卵紙の写真は名刺代わりに人に渡していたので、全国にはまだまだ龍馬の写真が存在しているかもしれません。おそらく、どこかに眠っているものがあると思います。
以下、便宜上6種類を次のように表記します。
写真A=立ち姿の写真、桂浜の銅像のモデル(コロジオン湿板と鶏卵紙2枚が確認されている)
写真B=イスに座ってブーツを履いている写真(鶏卵紙1枚)
写真C=伊藤助太夫と使用人と撮った3人の写真(鶏卵紙1枚)
写真D=上半身だけの写真(所在不明の鶏卵紙1枚と複写されたと思われるものが3枚)
写真E=海援隊士と撮った写真(所在不明の鶏卵紙1枚)
写真F=縁台に座った写真(鶏卵紙2枚)
何歳から何歳までの写真かについては、確定はできませんが、おそらくすべて慶応元年から3年に撮られたものと推測されています。数え年で31歳~33歳。
どこどこで撮影された、という定説が出てきた理由については、簡単に分かるのは、写真スタジオの特徴が出ている写真です。写真Aは、寄りかかっている台が上野彦馬スタジオの特徴で、他の人が撮った写真にも登場します。それから、上野彦馬スタジオには段差があります。写真A、写真B、写真C、これら3種類の写真の手前にはすべて段差が確認できます。それから、写真Dは、服装や髷の具合から写真Aと写真Bと同じ時に撮られたことが考えられていますので、スタジオも同じ上野彦馬スタジオだと考えられています。このように写真の背景からどこのスタジオか推測できます。いつ撮られたかもある程度は推測できます。
写真Eはよく分かっていませんが、可能性からすると長崎で撮った可能性が一番高いので、上野彦馬スタジオではないかと考えています。
写真Fは、背景に菊の花が写っていることから、撮った時期が秋頃と絞られます。また、額の生え際が少々後退しているようにも見うけられるため、長崎で撮られたものより後で撮られたのではないかと考察されています。となると、慶応3年の秋である可能性が強く、福井に行った時に撮られたのかもしれないと想像されています。ようするに時期的なことから推測したのです。しかし、これは推測の域を出ないものですので、信用することはできません。旅館名などは特定されていません。現在これらの写真を本格的に研究している方がいらっしゃいます。その方は、福井説は完全否定されています。その理由は本として出版する予定ですので、今ここで明かすことはできません。ちなみに、福井で龍馬が利用していた旅館は莨屋(たばこや)旅館ですが、今は残っていません。越前龍馬会の方々が研究の末、所在地を突き止め、現在は碑が建てられています。「よしだ」という懐石料理・仕出しのお店がありますが、その隣です(隣ではなく吉田さんの敷地内かもしれません)。この吉田さんも越前龍馬会の会員です。越前龍馬会のHPでも何らかの情報は得られると思います。

(3)
なんの為に撮ったのか、これらを示す龍馬自身が書いたものは何も残ってないです。
写真は、いろんな人に配っていたようです。当時の人は写真を名刺代わりに渡していたと言われています。龍馬の写真もあちこちの人(龍馬と関係のあった人の子孫)が所有していることから考えて、いろんな人に配っていたと思われます。当時写真を撮る時には簡単に言えば2種類の頼み方があったようです。アンブロタイプか種板の2種類です。当時どういうふうに頼んでいたかは分かりませんが、どちらかを指定することになります。どちらを頼むかによって、用途が違うし、金額も変わります。2種類がどういう違いがあるかを調べれば目的は自ずから想像できると思います。龍馬自身が書いたものが無い以上、そういうことから想像するしかないと思います。
なぜ長崎県まで行って撮影したのかについては、龍馬は長崎の亀山という場所を拠点といていましたので、必然的に地元で撮影したものが多くなっただけだと思います。
龍馬は写真の代金をどうしていたのか?質問(4)と関連しますが、長崎で撮られた写真はおそらく井上俊三が練習で撮ったのではないかと考えられています。そのため、代金は正規の代金を払っていたか疑問を持たれています。

(4)
どこにあったかは写真によって違います。
写真Aは原板を井上俊三が所蔵していたようです。現在高知県立歴史民俗資料館にあるものは、井上家から高知県に寄贈されたもののようです。原板を井上俊三のご子孫が所蔵していたということは、上野彦馬が撮影したものではなく、井上が撮影したものだと考えられます。これもアンブロタイプと種板の性質の違いが関係してきますので、この二つの違いを把握しておいてください。Aの鶏卵紙については所蔵者が分かりません。『坂本龍馬全集』には伊藤盛吉氏所蔵の鶏卵紙が掲載されていますが、現在は不明です。もう一つ、雑誌『太陽』に掲載された別物の鶏卵紙も所蔵者不明です。この写真Aについては発見という言葉は適当でないと思います。以前からずっと確認されていた写真ですから。もともとの所蔵者は、湿板が撮影者の井上所蔵、鶏卵紙は不明。
写真Bは三吉慎蔵のご子孫が所蔵しています。こちらも発見する必要はないと思います。もともとの所蔵者は三吉慎蔵。
写真Cは、伊藤助太夫のご子孫が所蔵しています。こちらも発見する必要はないと思います。もともとの所蔵者は伊藤助太夫。
写真Dは、鶏卵紙については所蔵者不明です。しかし、複写されたものの一つは高知県の個人の方が所蔵しています。これは溝淵広之丞の従者の話が写真の縁に書き込まれています。溝淵の関係者が所蔵していたものかもしれませんが、明確には分かりません。他に、明治37年に昭憲皇太后に献上された写真も写真Dの複写だと言われますが、所蔵者を知りません。これはもしかすると宮内庁などに残っているのかもしれませんが、分かりません。
写真Eは所在不明です。複写されたものが現在も色々な雑誌などに掲載されています。もともとの所蔵者やいつ発見されたかは分かりません。
写真Fは、現在は東京龍馬会の個人の方と下関市立長府博物館が所蔵しています。もともとの所蔵者は分かりません。いつ発見されたのかは分かりません。