坂本龍馬座像写真簡単に言うとすれば、「龍馬は江戸幕府を倒すきっかけを作った人」といえます。当時の幕府は外国の要求を拒絶する力が無く、諸藩をまとめる力も弱くなっていました。しだいに、このような幕府では日本を守れないと考え、幕府を倒して天皇の下に統一された国家が必要だと考える人が現れました。龍馬もその一人でした。

龍馬は幕府を倒すために、まず幕府と対抗できる大きな力を持った薩摩藩と長州藩の同盟を成功させます。薩摩藩と長州藩は後々、武力によって幕府を倒そうと考えますが、龍馬は国内で戦争をしてはいけないと考えていましたので、平和的な倒幕である大政奉還を土佐藩に提案します。この案は土佐藩から徳川慶喜に進言され、慶喜もこれを受け入れて、形式上は幕府が消滅しました。そして、龍馬は新政府が進むべき道を船中八策によって示しました。

龍馬がこのような大きな仕事を成し遂げられたのは、他の人と違う点をいくつか持っていたからです。まず、立場の違う人の言うこともしっかりと聞き、良い所を吸収する柔軟な考えを持っていたこと。そして、多くの人が実現不可能だと思っていることでも成功させられる行動力を持っていたこと。新しい時代の明確なビジョンを持っていたこと。そして最も重要なのは、優れた人脈を幅広く持っていたことです。さらに、龍馬は「世界に出たい」という自分の夢に向かって動いた人でもありました。

少年期

坂本龍馬生誕地坂本龍馬は、天保6(1835)年11月15日※、高知城に近い本町1丁目(現在の上町1丁目)に生まれた。父・八平(はちへい)、母・幸(こう)の間にはすでに4人の兄姉があり、龍馬は末っ子である。兄・権平(ごんぺい)とは21歳も歳が離れており、長女・千鶴(ちづ)とは19歳離れていた。次女の栄(えい)は生没年が分からないが、龍馬が最も慕っていた三女の乙女(とめ)は3歳年上であった。
坂本家の本家は才谷屋(さいだにや)という商家で、龍馬の家はそこから分家して郷士の株を取得した下級武士の家であった。

龍馬は幼い頃、愚童であったという説があるが、記録は全く残っていない。12歳から通い始めた楠山(くすやま)塾はすぐにやめてしまう。一説には上士の子と喧嘩(けんか)をして、喧嘩両成敗ということで父・八平がやめさせたともいわれている。この年に母・幸が亡くなり、以後龍馬は2番目の母・伊与(いよ)に教育を受ける。龍馬と乙女は、伊与の最初の嫁ぎ先であった川島家へ度々遊びに行き、「ヨーロッパ」というあだ名を持つ川島猪三郎(いさぶろう)から世界の話を聞いていた。

日根野道場跡

14歳になると龍馬は日根野道場へ入門し、小栗(おぐり)流の剣術などを習い始め、めきめきと腕前を上げ、19歳の時に江戸へ剣術修行に出かけた。

※ 太陽暦では1836年1月3日

青年時代

修行中心得大意剣術修行のため嘉永6(1853)年3月に高知を出発した龍馬は、江戸三大道場の一つである北辰(ほくしん)一刀流の千葉定吉(さだきち)道場へ入門した。

同年6月3日には、ペリー率いる黒船4隻が浦賀に来航し、龍馬も品川の沿岸警備に動員された。その頃父・八平に宛てた手紙では、「もし戦争になれば異国の首を討ち取って土佐へ帰ります。」と攘夷(じょうい)思想を表していた。しかし、1年後に修行を終えて帰ってきた龍馬は、秋に河田小龍(しょうりょう)を訪ねて、世界と対等に付き合うため、日本には大きな船とそれを動かせる人材が必要だと教えられ、攘夷の間違いを悟った。小龍は絵描きだが、アメリカから11年ぶりに帰ってきたジョン万次郎から聞いた外国の話を『漂巽記略(ひょうそんきりゃく)』という本にまとめた人物で、当時外国の事情に詳しい数少ない人材であった。

ジョン万次郎のアルファベット掛け軸

文久元(1861)年、27歳になった龍馬は親戚でもあり親友でもある武市瑞山(たけちずいざん)率いる土佐勤王党に加盟する。この年の秋、武市の密書を持って萩(山口県)の久坂玄瑞(くさかげんずい)のもとを訪ねた。久坂から、いまや大名も公卿(くぎょう)も頼りにならず、これからは草莽(そうもう)の人々(志のある在野の人々)が立ち上がらなければいけないと教えられ、翌年2月に土佐へ帰り、その翌月には脱藩をしてしまう。

脱藩

宮野々番所跡江戸時代は、藩を出る時には藩の許可が必要で、関所で手形を見せなければならなかった。脱藩とは無許可で藩外に出ることで、現在でいえばパスポートを持たずに日本を出ることに当たる。文久2(1862)年3月、28歳で脱藩した龍馬は長州藩に行き、そこから薩摩を目指したと言われているが定かではない。そして、この年の秋江戸へ出て、幕府の軍艦奉行並(ぶぎょうなみ)である勝海舟(かつかいしゅう)の弟子となった。勝が書いた『氷川清話(ひかわせいわ)』によると、龍馬は自分を殺しに来たと書いているが、前・福井藩主松平春嶽(しゅんがく)の回顧録では、春嶽が勝への紹介状を渡したとなっており、龍馬に殺害の意図はなかったとも考えられている。
その後、勝は幕府から大坂湾周辺の海防を命ぜられ、その一環として神戸に海軍操練所を建設する。龍馬もそれに同行し、操練所に併設された勝の私塾に入門した。そこで勝の片腕として働くかたわら、海軍の修行に励んだ。

神戸海軍操練所跡元治元(1864)年8月中旬には勝の使者として西郷隆盛(さいごうたかもり)と面会した。『氷川清話』によると、龍馬は「なるほど西郷という奴はわからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口(りこう)なら大きな利口だろう」と勝に報告した。それを聞いた勝は「坂本もなかなか鑑識(かんしき)のあるやつだよ。」と書いている。

亀山社中時代

亀山社中の跡勝の弟子となり順風満帆(じゅんぷうまんぱん)であった龍馬だが、元治元(1864)年6月5日、京都で池田屋の変が起こり、状況が一変した。池田屋に集まる過激な尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士たちが、新選組の近藤勇(いさみ)らによって一掃され、この中に海軍操練所(そうれんじょ)からも参加者がいた。さらに、7月に禁門の変が起こり、この時にも長州藩(ちょうしゅうはん)側として繰練所の生徒が参加していた。これらが幕府の怒りを買って、勝は江戸へ呼び戻され、操練所も勝塾も閉鎖となる。龍馬たち脱藩浪人は行き場を失うが、翌年薩摩藩(さつまはん)の庇護(ひご)の下、長崎で亀山社中(かめやましゃちゅう)という商社を作った。亀山社中は、海運業、海軍、航海術の修行機関などの顔を併せ持つ特異な組織で、各藩の脱藩浪人が中心であった。

肥州長崎図(1821年版)慶応2(1866)年1月21日、龍馬はこの組織を使って、当時非常に仲が悪かった薩摩藩と長州藩の手を結ばせる薩長同盟を成功させた。これにより、幕府に対抗できる勢力が誕生したことになり、それを画策(かくさく)した龍馬は幕府から危険人物としてマークされることになった。薩長同盟成立の2日後、伏見の寺田屋に泊まっていた龍馬は、伏見奉行所(ふしみぶぎょうしょ)の役人に踏み込まれた。しかし、寺田屋で働いていたお龍(りょう)の機転と、ボディーガード役の長府藩士・三吉慎蔵(みよししんぞう)に助けられ、薩摩藩邸に逃げ込むことができた。両手の親指などに深手を負った龍馬は、薩摩藩邸でお龍に看護(かんご)を受け、その後お龍と結婚し、西郷隆盛や小松帯刀(たてわき)の勧めもあって、薩摩の霧島山に傷の保養を兼ねた新婚旅行に出かけた。

大政奉還へ

下関海戦図慶応2(1866)年7月には、第二次長州征伐が起こり、亀山社中は長州藩を助けるため、薩摩藩名義で購入したユニオン号で参戦した。
また、龍馬は蝦夷(えぞ・北海道)の開拓や、島根県沖の竹島の開拓を考えたり、11月には薩摩藩と長州藩の合弁(ごうべん)の商社設立を画策したり、経済人としての本領も発揮していた。

血痕のついた掛軸

この龍馬に目を付けたのが土佐藩だった。薩摩藩と長州藩に遅れをとっていた土佐藩は、慶応3(1867)年1月、当時土佐藩政の実権を握っていた参政(さんせい)・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が長崎で龍馬と会談を行う。倒幕(とうばく)を目論(もくろ)む龍馬も、土佐藩を引き込むことは有利になると考え、後藤と手を結び土佐藩に復帰した。これにより、亀山社中は海援隊(かいえんたい)と名前を変え、土佐藩の組織となり、龍馬は海援隊隊長に就任した。

同年6月頃からは、薩摩藩と長州藩が武力討幕を考え始める。土佐藩は武力討幕を避けたい考えで、その策を龍馬に求めてきた。龍馬は後藤に土佐藩船夕顔の中で、大政奉還(たいせいほうかん)を盛り込んだ8つの策を提案した。船中八策である。後藤はこれを前・土佐藩主山内容堂(やまうちようどう)に進言し、容堂が15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白し、これを慶喜が受け入れ、10月14日に政権を朝廷に奉還した。

血痕のついた屏風

龍馬はその1ヶ月後の11月15日※、33歳の誕生日に京都の近江屋(おうみや)で暗殺された。暗殺の実行犯は見廻組(みまわりぐみ)説が有力であるが、黒幕は幕府説、薩摩藩説、土佐藩説、紀州藩説などがあり、未だに謎である。

※ 太陽暦では12月10日

人物相関図

人物相関図

(土佐藩)

  • 坂本権平(さかもとごんぺい):21歳年上の龍馬の兄。
  • 坂本乙女(さかもととめ):3歳年上で龍馬が最も慕ってた姉。
  • 武市瑞山(たけちずいざん):土佐勤王党の盟主で親友。
  • 中岡慎太郎(なかおかしんたろう):薩長同盟などに奔走。陸援隊隊長。
  • 後藤象二郎(ごとうしょうじろう):土佐藩上士の中では随一。大政奉還に尽力。
  • 山内容堂(やまうちようどう):15代目土佐藩主。幕末四賢侯の一人。
  • 佐佐木高行(ささきたかゆき):土佐藩上士。海援隊の理解者。
  • 板垣退助(いたがきたいすけ):土佐藩上士。武力討幕論者。
  • 溝淵広之丞(みぞぶちひろのじょう):竹馬の友。最大の理解者の一人。
  • 長岡謙吉(ながおかけんきち):海援隊書記官。船中八策や大政奉還副書を起草。
  • 菅野覚兵衛(すがのかくべえ):海援隊士。お龍の妹・君枝を娶る。
  • 近藤長次郎(こんどうちょうじろう):饅頭屋の息子。英国密航が露見し長崎で切腹。
  • 河田小龍(かわだしょうりょう):絵師。龍馬に外国事情を教えてくれた先生。
  • 岩崎弥太郎(いわさきやたろう):長崎の土佐商会の責任者。三菱の創始者。
  • ジョン万次郎(じょんまんじろう):漂流した後アメリカで教育を受けて帰国。
  • 田中良助(たなかりょうすけ):柴巻にある坂本家領地を管理。龍馬が慕っていた。

(長州藩・長府藩)

  • 木戸孝允(きどたかよし):長州藩の第一人者で薩長同盟に尽力。維新三傑の一人。
  • 高杉晋作(たかすぎしんさく):龍馬にピストルを呉れた。奇兵隊を創設。
  • 久坂玄瑞(くさかげんずい):龍馬が脱藩したきっかけを作った人物。過激尊攘派。
  • 三吉慎蔵(みよししんぞう):龍馬が最も信頼していた人。宝蔵院流の槍の達人。
  • 伊藤助太夫(いとうすけだゆう):下関で本陣を営む。龍馬の支援者の一人。

(薩摩藩)

  • 西郷隆盛(さいごうたかもり):亀山社中の理解者。維新三傑の一人。
  • 小松帯刀(こまつたてわき):薩摩藩家老。土佐藩の大政奉還論を支持。
  • 大久保利通(おおくぼとしみち):薩土盟約の時同席。維新三傑の一人。
  • 吉井幸輔(よしいこうすけ):薩摩藩京都留守居役。友人として身の危険を忠告。
  • 五代友厚(ごだいともあつ):いろは丸事件の調停役。商才が優れていた。

(京都)

  • お龍(おりょう):医者の娘で寺田屋で働いていた。龍馬の妻。
  • お登勢(おとせ):寺田屋の女将。義侠心に溢れた女傑。
  • 孝明天皇(こうめいてんのう):攘夷党でありながら親幕派。毒殺説あり。
  • 岩倉具視(いわくらともみ):公卿。王政復古を画策し討幕派の巨頭となる。
  • 三条実美(さんじょうさねとみ):急進攘夷派の公卿。七卿落ちで長州に流される。

(幕府)

  • 勝海舟(かつかいしゅう):幕臣で軍艦奉行。龍馬は日本第一の人物と認めた。
  • 大久保一翁(おおくぼいちおう):幕臣。勝を抜擢した人。龍馬も認めた天下の人物。
  • 永井尚志(ながいなおむね):幕臣で若年寄格。大政奉還の理解者。
  • 徳川慶喜(とくがわよしのぶ):15代将軍。龍馬は新政府に引き込もうと画策していた。

(福井藩)

  • 松平春嶽(まつだいらしゅんがく):福井藩主。勝海舟への紹介状を渡したといわれている。
  • 横井小楠(よこいしょうなん):熊本藩士だが、福井藩の政治顧問。国是七条を起草。
  • 由利公正(ゆりきみまさ):福井藩士。龍馬と意気投合。五箇条のご誓文を起草。

(長崎)

  • グラバー:イギリス商人。龍馬らは軍艦や武器などを購入。
  • 小曽根英四郎(こそねえいしろう):長崎の貿易商人。龍馬の支援者の一人。

(海援隊士)

  • 陸奥宗光(むつむねみつ):紀州脱藩者、のち外務大臣。終生龍馬を尊敬していた。
  • 白峰駿馬(しらみねしゅんま):越後長岡脱藩者。日本最初の造船所設立。

年表

元号 西暦 坂本龍馬の動向 全国の動向
天保 6 1835 11月15日 高知城下の郷士坂本八平の次男として誕生
弘化 3 1846 城西小高坂村・楠山庄助の塾に通うが、すぐに退塾。
この頃、母、幸死去
嘉永 元 1848 城下築屋敷・日根野弁治道場に小栗流剣術を学ぶ
 同 6 1853 3月 「小栗流和兵法事目録」1巻を伝授される
4月頃 江戸の北辰一刀流千葉定吉道場に入門
ペリー来航時、土佐藩臨時御用として品川沿岸警備
6月3日 ペリー浦賀沖に来航
12月1日 佐久間象山に入門
安政 元 1854 3月 日米和親条約調印
6月23日 剣術修行満期、高知帰省
冬頃 絵師河田小龍を訪ね、世界情勢について啓発される
 同 2 1855 12月4日 父、八平死去 幕府が長崎に海軍伝習所を設ける
 同 3 1856 8月20日 再び土佐藩臨時御用として江戸へ出立する
 同 5 1858 9月7日 安政の大獄始まる
万延 元 1860 3月3日 桜田門外の変
文久 元 1861 5月15日 長州藩長井雅楽「航海遠略策」を献策
9月 土佐勤王党に9番目に加入
10月11日 武市半平太の密書を持って、萩へ出立。
11月15日 和宮江戸到着
文久 2 1862 1月14日 長州萩で久坂玄瑞に会う 1月15日 坂下門外の変
3月24日 沢村惣之丞と共に土佐を出奔
4月8日 土佐藩執政吉田東洋暗殺
4月16日 島津久光率兵上京
6月28日 山内豊範参勤交代のため高知発
10月頃 勝海舟を訪問し、その場で弟子入りする
文久 3 1863 2月25日 勝海舟のとりなしで、出奔の罪が許される
3月4日 将軍家茂上洛
3月11日 加茂行幸ついで4月11日石清水へ
4月2日 大久保一翁と面会し、大政奉還論を教えられる
5月10日 長州藩下関で攘夷決行
5月16日 神戸の海軍塾創設のため、勝の使者として越前福井へ向かう。
8月18日の政変。三条実美ら七卿は長州へ
9月21日 武市半平太ら土佐勤王党主要員を捕縛
10月 海軍塾塾頭になる
12月 土佐藩から帰藩命令が出たが、従うことなく再び出奔
元治 元 1864 1月 参与会議が開始される
2月10日 外国による長州攻撃の調停役として、勝海舟が長崎へ派遣され龍馬らも随行する
2月14日 勝の使者として熊本の横井小楠を訪う
6月5日 池田屋の変で同志・北添佶馬らを失う 6月5日 池田屋騒動
7月19日 禁門の変
7月23日 長州藩追討の勅令が幕府に下る
7月24日 第1次長幕戦争
8月頃 勝の使者として西郷隆盛と面会 8月5日 4ヶ国連合艦隊下関砲撃
10月 神戸海軍操練所が事実上閉鎖。龍馬らは薩摩の庇護を受ける
慶応 元 1865 1月 長州藩主父子服罪
3月17日 長州藩の藩論が「正義派」の唱える武装恭順に決定
4月 長州再征布告
5月1日 鹿児島西郷宅に逗留
5月19日 再び熊本の横井小楠を訪う
5月24日 太宰府延寿王院で三条実美に謁見
閏5月6日 木戸孝允と面会する
閏5月11日 武市半平太切腹
閏5月29日 慎太郎と共に下関を発ち上京
閏5月 薩摩藩の援助を得て、亀山社中を設立
6月24日 京都薩摩藩邸に入り西郷と会見。薩摩藩名義で長州藩に武器購入する事を承諾させる
6月下旬 乙丑の獄(筑前勤王党大弾圧。10月23日から刑罰執行)
9月21日 長州再征の勅許
9月23日 大久保利通西郷宛書状に「非義勅命」
10月3日 長州藩から薩摩藩へ兵粮米購入を周旋
慶応 2 1866 1月10日 三吉慎蔵や池内蔵太と下関から京都へ出立
1月21日 薩長同盟成立
1月23日 伏見寺田屋で奉行所役人に襲撃される
2月5日 木戸に求められ、薩長同盟の裏書きを記す
3月5日 西郷らの勧めで、お龍と共に鹿児島へ出立
5月2日 亀山社中の船・ワイルウェフ号沈没
6月7日~ 第2次長幕戦争
6月17日 下関で長州対幕府の戦争に参加する
7月 この頃、亀山社中は経営難で解散を考える 7月20日 将軍家茂死去
8月1日 小倉城落城
10月 蝦夷開拓を企画し、大極丸の購入を図る
11月 旧知の土佐藩士溝渕広之丞に素懐を述べる
12月5日 徳川慶喜第15代将軍となる
12月25日 孝明天皇死去
慶応 3 1867 1月9日 明治天皇践祚
1月12日頃 長崎清風亭にて、溝渕の仲立ちで土佐藩参政後藤象二郎と会見
3月 将軍慶喜が兵庫開港勅許を朝廷へ奏請
4月 亀山社中を改組して海援隊と称し、海援隊長となる
4月23日 瀬戸内海で紀州藩船明光丸といろは丸が衝突し、いろは丸沈没
5月14日~ 四侯会議
5月24日 兵庫開港勅許
5月29日 いろは丸事件の賠償金問題が解決
6月9日 夕顔艦で後藤と共に長崎を発し上京。「船中八策」を提案する
6月22日 薩土盟約成立(慎太郎と共に立ち会う)
7月6日 イカルス号事件発生
7月29日 英国イカルス号水夫殺害の嫌疑が海援隊に掛かる
8月3日 松平春嶽から山内容堂宛の手紙を預かり、土佐藩大監察佐佐木高行に手渡す。そのまま佐佐木の船に同乗し、土佐へ帰る
8月20日 大政奉還建白を土佐藩論に決定(藩兵出兵は不可、将軍職廃止も削除)
8月 遠江・三河・尾張で「ええじゃないか」の大乱舞(やがて全国へ波及)
9月7日 薩摩藩が土佐藩へ薩土盟約破棄を通告
9月10日 イカルス号事件解決
9月14日 ハットマンから小銃1300挺を購入契約
9月20日 下関で海援隊士に200挺を託し、大坂に送らせた。その後龍馬らは土佐へ向かう
9月29日頃 出奔後初めて実家坂本家に帰る
10月1日 3日の土佐藩による大政奉還建白に合わせて土佐を出立する
天候悪化のため入京は9日になる
10月3日 土佐藩が大政奉還建白書を提出
10月6日 大久保利通、岩倉具視と中御門経之に面会し、王政復古について協議
10月10日 幕府若年寄の永井尚志に面会し、大政奉還建白採用を求める
10月14日 慶喜が大政奉還を上奏。この日薩長両藩に討幕の密勅が下る
10月16日 戸田雅楽と新官制擬定書を作成する
10月24日 松平春嶽の上京と、由利公正の新政府への出仕を求めて越前へ
11月11日 永井尚志に面会
11月15日 近江屋で慎太郎と共に襲撃を受ける龍馬は即死
11月17日 京都東山霊山墓地に埋葬
12月7日 天満屋事件
12月9日 王政復古クーデター、小御所会議