所蔵品
Of Fine Arts

1

坂本龍馬書簡(複製)文久3(1863)年6月29日 姉 乙女宛

文久3年6月29日 姉乙女宛

通称「せんたくの手紙」。「日本(ニッポン)を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべく・・・」という有名なフレーズは、龍馬の認識が既に日本全体にあることを明確に表している。このあと、出家を願望する乙女に、冗談とからかいを交えて、思いとどまるよう説得している。

真物は京都国立博物館所蔵(国重要文化財指定)

2

坂本龍馬書簡(真物)文久3(1863)年秋頃 姉 乙女、姪 春猪宛

文久3年秋頃 姉乙女、春猪宛

大和天誅組を率いた吉村虎太郎の挙兵失敗を嘆き、自分が指揮を取れば成功したものをと自負している。

弘松家寄託

3

坂本龍馬書簡(複製)〈同盟裏書〉慶応2(1866)年2月5日 木戸孝允宛

慶応2年2月5日 木戸孝允宛

慶応2年1月21日、龍馬立会いのもとに薩長両藩の盟約が成立した。慎重な木戸孝允は盟約六ヶ条を書き綴り、龍馬に確認のための裏書きを求めた。龍馬はその時手に負傷していたため、2週間後の2月5日、朱で裏書きをし、2月6日にお詫びと近況を伝える手紙を添えて、長州の木戸のもとへ届けた。

ところでその木戸の手紙(表書き)は同盟締結のあと、大坂の宿でまとめたもので「予定の日に龍馬が来なかったので、もう会えないかと思ったが何とか間に合い、そのあとは薩摩の小松帯刀と西郷を徹底的に説得してくれたので、薩長双方の意志が通じ、細かいことまでまとまってこの上ないことだった」と、先ず龍馬の果たした役割に謝意を表している。

この裏書きは木戸が書いた六ヵ条の盟約の真裏の真中に書かれており、ちょっと想像しにくい龍馬の几帳面さがうかがえる。

真物は宮内庁書陵部所蔵

4

ピストル① スミス&ウエッソンⅡ型 32口径

龍馬が高杉晋作から貰ったピストルと同型の実物。6連発式で全長は27cm。龍馬が持っていたピストルは、寺田屋で伏見奉行所に襲われた時に捨ててきたため、現存していない。

5

ピストル②(模型) スミス&ウェッソンⅠ型 22口径

寺田屋事件の際の負傷で、鹿児島へ保養に行った龍馬とお龍がそれぞれ持ち「鳥を撃って面白かった」と手紙に書いている。実際に持っていたのは1½型で、長さは同じ17cmだが銃身が太い。暗殺された時も持っていたと思われるが、取り出す間もなかった。

6

坂本龍馬筆 下関海戦図(複製)

溝渕広之丞のものと同じ時期、龍馬によって描かれたもの。手前の山は下関市の火の山で現在展望台があり、そこへ登るとこの通りに見える。龍馬は最初門司の半島右側からの攻撃に参加したが、のち下船して火の山に登り、大砲を使って援護射撃をした。「戦のはなしはやった者でなければ分からない」「鉄砲の音がゴマを煎るように聞こえる」など、絵の海部分いっぱいに感想を書いている。

真物は京都国立博物館蔵

7

坂本龍馬書簡(複製)慶応2(1866)年12月4日 姉 乙女宛

慶応2年12月4日 姉乙女宛

通称「新婚旅行の手紙」。寺田屋で襲われた龍馬と妻のお龍は薩摩藩にかくまわれ、薩摩の船で鹿児島へ行くことになった。その年の暮れ、お龍のことや鹿児島への旅の様子を絵入りで姉乙女に知らせたのがこの手紙である。龍馬は寺田屋での出来事を「龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり」と書き、続いて鹿児島での霧島山登山について絵入りで述べている。

真物は京都国立博物館所蔵(国重要文化財指定)

8

坂本龍馬書簡(真物)慶応2(1866)年12月4日 権平・一同宛

慶応2年12月4日 権平・一同宛

これまで「澄心斎写」として内容は知られていたが、平成29年、龍馬直筆の原本の一部が見つかった。寺田屋事件の詳細や「天下の人物評」が含まれる長文の手紙。

(写真は一部のみ)

9

海援隊約規(真物)

福岡(たか)(ちか)や後藤象二郎の計らいで、慶応3(1867)年4月、龍馬や中岡慎太郎の脱藩罪が許され、亀山社中は海援隊に改編された。

この時に明文化された規則が「海援隊約規」。5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表している。

弘松家寄託

10

海援隊旗(複製)

この旗印は「二曳(にびき)」といい、海援隊の会計を勤めた岩崎弥太郎が基礎を築いた三菱の、船舶部門「日本郵船」の社のマークとして、白地に二本の赤線が使われ、煙突にも描かれた。やはり「二曳」という。

11

坂本龍馬書簡(真物)慶応3(1867)年4月7日 姉 乙女宛

慶応3年4月7日 姉乙女宛

慶応3年(1867)年4月から龍馬は脱藩を許され、土佐藩に戻り海援隊長になった。その嬉しさから、以前に奉行所役人に踏み込まれ、大けがをした寺田屋に泊まって、今度こそ「伏見奉行を恐れさせてやりたい」と言っている。

個人寄託

12

坂本龍馬書簡(真物)慶応3(1867)年6月24日 兄 権平宛

慶応3年6月24日 兄権平宛

西郷隆盛に託された吉行の刀は常に身に帯び人からもほめられたと兄に感謝し、後段では、いろは丸の海難事故で自分の主張が全面的に認められた結果、それが日本の海路定則となり、人も聞きに来るようになったと喜んでいる。いろは丸衝突沈没事件について兄権平に知らせたのはこれが初めて。

弘松家寄託

13

坂本龍馬書簡(真物)慶応3(1867)年10月13日 後藤象二郎宛草案

慶応3年10月13日 後藤象二郎宛草案

いよいよ大政奉還の可否を決める日。龍馬は二条城へ登城する後藤に決死の覚悟で臨めと檄文を送った。しかし、よほど力が入ったのか「(後藤)先生」を「生生」と書き損じ、これを下書きとして手元に残した。このときの緊張と高まりが直に伝わる第一級資料である。

14

坂本龍馬書簡(真物)慶応3(1867)年11月 後藤象二郎宛草案

慶応3年11月 後藤象二郎宛草案

「越行の記」と題された、後藤宛の福井行き報告。三岡八郎(由利公正)との面会、話題としたことなどが記される。

個人寄託

15

新政府綱領八策(複製)慶応3(1867)年11月初め

慶応3年11月初め

龍馬が作製。現在二通残っており、一通は国立国会図書館、もう一通は下関市立歴史博物館が所蔵。

当館では国立国会図書館所蔵のものから複製を製作した。

後藤象二郎とまとめた「船中八策」が原形である。

真物は国立国会図書館所蔵

16

坂本龍馬書簡(真物)慶応3(1867)年11月13日 陸奥宗光宛

慶応3年11月13日 陸奥宗光宛

暗殺2日前の日付で、現存するなかでは最後の手紙。内容は海援隊の中で龍馬が期待をかけていた陸奥との刀談義で、この時期にしてはのどかな話だが、龍馬の刀剣趣味は並々ではなかったという。自然堂は慶応3(1867)年から龍馬とお龍が住んだ下関の家で、そこから慶応3(1867)年と推定。

17

血痕のついた掛軸(複製)

龍馬と慎太郎が惨殺された部屋には屏風と掛軸があり、飛び散った血痕があった。この掛軸は暗殺当日、淡海槐堂(かいどう)が持ち込んだもので、掛軸の白梅と椿の絵は、槐堂自身が描いた。上部の漢文は2人の暗殺後、海援隊の長岡謙吉がこの事件について記したもの。

真物は京都国立博物館所蔵(国重要文化財指定)

18

血痕のついた貼交屏風(複製)

龍馬と慎太郎が暗殺された部屋に、血染めの掛軸とともにあった屏風。絵や書簡、短冊など19点の貼交屏風で、猫と牡丹の絵には50滴余りの血痕がついている。左上の富士は有名な狩野探幽の作。右下の手紙は四十七士の一人、(はざま)十次郎のもの。

真物は京都国立博物館所蔵(国重要文化財指定)

19

陸奥守吉行 日本刀

京都近江屋で龍馬が刺客に襲われた時、床の間から取った刀が、二尺二寸の「吉行」だった。先祖の守り刀として兄から送ってもらったものだったが、とっさのことで鞘を払う間もなく、敵の刃を鞘ごと受けたが、切っ先が龍馬の額を切り割り絶命した。この時の刀は北海道に移住した子孫のもとにあったが、大正2年(1913)の釧路大火で被災し、鞘などは焼失した。現状で反りがほとんどない状態であるが、これは火災の影響と考えられている。刀身は現在、京都国立博物館が所蔵しており、当館蔵の「陸奥守吉行」は同じ刀工の作。
吉行は寛文の頃(1600年代後半)の刀工。大坂で修行ののち土佐に移り、土佐藩お抱えとなって「陸奥守」を拝領した。

20

公文菊僊画 坂本龍馬肖像

公文菊僊(明治6年~昭和20年)は高知出身。上京して久保田米僊に四条派を学ぶ。龍馬のほか、武市半平太や中岡慎太郎など、維新志士の肖像を多く手がける。龍馬の肖像画は、分かっているだけでも2千部以上が頒布されている。