龍馬ゆかりの地
Place of connection
岩崎弥太郎旧邸・岩崎弥太郎銅像・妙見山
龍馬ゆかりの地
住所 | 安芸市一ノ宮 |
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アクセス | 土佐くろしお鉄道球場前駅下車、タクシー10分 |
国道55号線、安芸市街地西入口に安芸市営球場への道がある。その次の交差点に岩崎弥太郎邸入口の標識がある。それに従って左折し3キロほど直進すると左手に一宮神社がある。鳥居前を過ぎると弥太郎邸を教える標識があり邸はすぐそこだ。周囲は竹垣がめぐり、茅葺きの屋敷を中央にして、左には三菱傘下諸会社の有志によって建立された自然石の記念碑があり、奥には土蔵群が並んでいる。天保5(1834)年に生まれた弥太郎はここで青年期を過ごした。
生家は4室平屋建であり、藩政期の中農クラスの代表的屋敷とされるものだ。表座敷の南にある小庭には、弥太郎が夢を託して自ら置いた大八洲(おおやしま)という日本列島を形どった石組がある。日本を手中に収めようとする弥太郎の大志がうかがえる庭だ。後年建てられた土蔵には三菱の家紋も見える。この家紋は三階菱に土佐藩の三葉柏を重ねて考案されたもので,明治6(1873)年からだという。
銅像は、生誕150年を記念して江ノ川上公園に建立され、平成27年3月に岩崎弥太郎生家前に移設された。
昭和59年は岩崎弥太郎生誕百五十年の年だった。この年を記念し、安芸市が立案し、安芸商工会議所などが中心となって全国に募金活動を展開した。目標の3千万円を1年で達成する活動だった。像の高さは3.3メートル、台座の高さ1.1メートル、その周囲に16メートル四方の別の囲みを作り、そこに弥太郎の活躍を象徴する版画風の絵が飾ってある。像の制作者は浜田浩造氏だ。芸西村の「お龍・君枝像」や、梼原の「維新の門」も彼の作だ。「故郷に帰り、和服姿で海に向かって立っている弥太郎をイメージし、時代の風を受けとめる大きさ、偉人のもつ独特の雰囲気を出したかった。かっぷくのよい高校時代の同級生に和服を着せ、大型扇風機で風を送って着物の裾の動きをみたり、手のひらの表情、右手の角度など幾度か作り直した」と作者はいう。撰文は日本芸術院院長有光次郎で、揮毫は安芸市出身の手島右卿だ。右手を力強くあげ、時代の激風に向かって立つ威風堂々とした弥太郎の銅像が除幕されたのは、昭和61年7月12日だった。
邸から西方にそびえる山が妙見山だ。標高448メートルの山頂には、この地の産土神星神社がある。弥太郎はよくこの山に登ったという。彼が江戸遊学の際ここに参詣し、「男子志ならずんば再びこの山に登らじ」と社殿の壁に大書して祈願したという話は有名だ。
弥太郎は地下浪人という低い身分ではあったが、吉田東洋の門下となり、後藤象二郎らと交流し、慶応2(1866)年には土佐藩開成館の長崎の出先である土佐商会の責任者となった。亀山社中が海援隊に改編されると、藩からの融資の窓口となり、海援隊士の給料の支払いをはじめ、龍馬の要求した50両の用立てにも応じている。世界の海援隊を夢みつつ果たさずに散った龍馬の遺志はこの弥太郎によって受け継がれたものとみてもよかろう。
「坂本龍馬と同年の弥太郎は五十歳で没したが、明治維新よりわずか十八年、彼の行った事業は壮大でその後の日本の経済、政治にも大きく影響した。生誕百五十年(1984)を記念して三粁西南 江の川上公園(国道55号線沿い)に銅像を建立した」と銅像紹介の案内板も立っている。