龍馬ゆかりの地
Place of connection

須崎湾 須崎砲台場跡

住所 須崎湾 ◆須崎市 須崎砲台場跡 ◆須崎市
アクセス 須崎湾 ◆JR須崎駅下車、徒歩5分 須崎砲台場跡 ◆JR土佐新荘駅下車、徒歩10分

037-3-thumb-240x240-216.jpgJR土佐新荘駅から、線路に沿って10分ほど須崎駅方向に引き返すと土佐藩砲台跡(国史跡)がある。異国船の来航にそなえ沿岸防備のため文久3(1863)年7月から8月にかけて、東・中・西の三砲台が整えられた。現在、広さ51アール、長さ120メートルの西の台場が西浜公園として保存されている。
慶応3(1867)年7月6日、長崎星祭りの夜、英艦イカルス号水夫2人が殺害され、その嫌疑が海援隊にかかった。その夜海援隊の幹部菅野覚兵衛と佐々木栄は丸山で豪遊していた。同夜土佐藩船横笛が、続いて若紫も長崎を出港したから嫌疑は一層深まった。英国公使パークスは犯人を土佐人と決めつけ、英国と土佐の談判という国際事件の舞台となったのが須崎港だ。決着をつけるべくパークスを乗せた英艦バジリスク号は慶応3(1867)年8月6日午前9時に須崎港にあらわれた。すでに土佐軍艦夕顔と空蝉は須崎に碇泊し、幕艦回天丸も外国奉行平山図書頭を乗せ、薩艦三邦丸も土佐藩重役を乗せて待っていた。艦船5隻「舳艫相銜(じくろあいふくむ)で港の内外に投錨し、煤煙天に冲し今にも手切となれば、砲声一発血の海を湧かそうと人心競々として安き心もなく」、また陸では、「眼のあたり外艦の来航を見て、外国との開戦を危ぶみ、荷物を片付け避難し、警戒のため毎夜市中に松明を焚き、須崎浜白々昼の如く、雨中開戦のため蓑の用意、英人の首級を包む油紙大小数枚」(『真覚寺日記』より)も用意する騒動となった。

037-1-thumb-240x240-215.jpgJR土佐新荘駅から、線路に沿って10分ほど須崎駅方向に引き返すと土佐藩砲台跡(国史跡)がある。異国船の来航にそなえ沿岸防備のため文久3(1863)年7月から8月にかけて、東・中・西の三砲台が整えられた。現在、広さ51アール、長さ120メートルの西の台場が西浜公園として保存されている。
慶応3(1867)年7月6日、長崎星祭りの夜、英艦イカルス号水夫2人が殺害され、その嫌疑が海援隊にかかった。その夜海援隊の幹部菅野覚兵衛と佐々木栄は丸山で豪遊していた。同夜土佐藩船横笛が、続いて若紫も長崎を出港したから嫌疑は一層深まった。英国公使パークスは犯人を土佐人と決めつけ、英国と土佐の談判という国際事件の舞台となったのが須崎港だ。決着をつけるべくパークスを乗せた英艦バジリスク号は慶応3(1867)年8月6日午前9時に須崎港にあらわれた。すでに土佐軍艦夕顔と空蝉は須崎に碇泊し、幕艦回天丸も外国奉行平山図書頭を乗せ、薩艦三邦丸も土佐藩重役を乗せて待っていた。艦船5隻「舳艫相銜(じくろあいふくむ)で港の内外に投錨し、煤煙天に冲し今にも手切となれば、砲声一発血の海を湧かそうと人心競々として安き心もなく」、また陸では、「眼のあたり外艦の来航を見て、外国との開戦を危ぶみ、荷物を片付け避難し、警戒のため毎夜市中に松明を焚き、須崎浜白々昼の如く、雨中開戦のため蓑の用意、英人の首級を包む油紙大小数枚」(『真覚寺日記』より)も用意する騒動となった。