常設展
Collection

常設展示室

常設展示室

常設展示室では、坂本龍馬が書いた手紙を中心に様々な資料の展示を通して、龍馬の生涯や人となりを紹介しています。
龍馬の考えや行動は手紙の中に生き生きと記されています。新しい日本に対する思いや政策を真剣に綴った手紙、親しい友人や家族あての、彼独特のユーモアあふれる手紙など、龍馬の人となりも見えてくるようです。
当館の常設展示では、龍馬の手紙を真物・複製も合わせ、日本で最も多くご覧いただけます。
入口には名工・十二代酒井田柿右衛門による坂本龍馬像(昭和初期)があり、手紙の他、肖像写真や龍馬のものと同型のピストルなどの貴重な資料もご覧いただけます。(部分的に資料を入替える場合があります。)

展示紹介

幕末社会と土佐

黒船来航絵巻「金海奇観」*複製

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大槻磐渓編、鍬形赤子等画。安政元(1854)年1月に、日米和親条約を結ぶため、アメリカのペリーが再来航しました。この時、大槻は仙台藩主の命を受け浦賀に赴き、軍船や大砲、使節応接所の図、ペリーら使節の肖像画を描き、巻物2巻にまとめました。金海とは金川(神奈川)の海という意味。

新興輿地全図

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1835年にフランスで作られた地図を元に、箕作省吾が弘化元(1844)年に作成した世界地図。
龍馬は継母・伊与の最初の嫁ぎ先にあたる廻船問屋・川島家をよく訪ねていました。川島家には、この世界地図と同じものがあり、龍馬はそれを見せてもらった可能性が高いと思われます。

龍馬誕生から江戸剣術修行

龍馬肖像写真原版(ガラス湿版) *複製

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日本に写真技術が入ってきた初期の写真家である上野彦馬のスタジオ(長崎)で、土佐の井上俊三が撮影したといわれる龍馬の写真原版(ガラス湿板)。(真物:高知県立歴史民俗資料館所蔵)

土佐勤王党、そして脱藩

武市半平太書簡(慶応元年閏5月10日) 妻・冨宛 *複製

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一藩勤王の夢破れた半平太は、文久3(1863)年9月投獄され、約1年9ケ月後の慶応元(1865)年閏5月11日、切腹を命ぜられ、37歳の生涯を閉じました。半平太は獄中にあって、得意の筆で自画像や日々の様子を絵入りの文にしたため、毎日のように妻や姉に送りました。この手紙は慶応元年閏5月10日、妻冨に宛てたもので「今晩の文たしかにととき候」で始まります。これが最後の手紙となりました。同じ獄にいる岡田以蔵を、情報を売った奴と激しく非難しています。

勝海舟の弟子時代

龍馬書簡(文久3年6月29日) 姉・乙女宛 *複製

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この書簡の「日本ニッポンを今一度せんたくいたし申候事ニいたすべく......」は、龍馬の認識が既に日本全体にあることを明確に表しています。このあと、出家を願望する姉の乙女を、得意のユーモアでからかい、最後に、越前福井藩に招かれている横井小楠の示した「国是七条」に国の改革のヒントを得た喜びを綴っています。(真物:京都国立博物館所蔵〈国指定重要文化財〉)

龍馬書簡(元治元年6月28日) 姉・乙女宛 *複製

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物事にはすべて道理があり、ねぶと(腫れ物)を治すには、痛くても腫れ始めには我慢をし、腫れてしまってから針を刺さないと膿も出てこない。世の中を変えるには要はじっくりチャンスを持つことだ、と潮時を見極める大切さを説いています。後段では姪春猪(おやべ)の出産を気遣っています。(真物:高知県立高知城歴史博物館所蔵)

薩長同盟

坂本龍馬書簡「同盟裏書」(慶応2年2月5日) *複製

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慶応2年1月21日、龍馬立会いのもとに薩長両藩の盟約が成立しました。慎重な木戸孝允は盟約六ケ条を書き綴り、龍馬に確認のための裏書を求めました。龍馬はその時、手に負傷していたため、2週間後の2月5日、朱で裏書をし、2月6日にお詫びと近況を伝える手紙を添えて、長州の木戸のもとへ届けました。(真物:宮内庁書陵部所蔵)

龍馬のピストル スミス&ウェッソンⅡ型 32口径

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龍馬が高杉晋作から貰ったピストルと同型の実物。32口径6連発式で全長は27cm。龍馬が持っていたピストルは寺田屋で伏見奉行所に襲われた時に捨ててきたため、現存していません。

新婚旅行から幕長戦争

龍馬書簡(慶応2年12月4日) 姉・乙女宛 *複製

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通称「新婚旅行の手紙」。寺田屋で襲われた龍馬と妻のお龍は薩摩藩にかくまわれ、
薩摩の船で鹿児島に行くことになりました。その年の暮れ、お龍のことや鹿児島への旅の様子を絵入りで姉乙女に知らせたのがこの手紙です。龍馬は寺田屋の出来事を「彼女がいたからこそ、龍馬の命は助かったのです」と書き、続いて霧島登山のことを絵入りで述べています。(真物:京都国立博物館所蔵〈国指定重要文化財〉)

坂本龍馬・下関海戦図 *複製

10龍馬筆・下関海戦図(複製)慶応2年12月4日.jpg

幕長戦争で、龍馬と土佐藩士・溝渕広之丞は、下関側の火の山に登り、山上から大砲を撃ちながら、高杉晋作の丙寅丸や海援隊の操船する乙丑丸の活躍を観戦しました。その戦いの様子を龍馬が描いたものです。手前の山は下関市の火の山で、現在展望台があり、そこへ登るとこの図の通りに見えます。龍馬は最初門司の半島右側からの攻撃に参加しましたが、のち下船して火の山に登り、大砲を使って援護射撃をしました。「戦のはなしはやった者でなければ分からない」「鉄砲の音がゴマを煎るように聞こえる」など海の部分いっぱいに感想を書いています。(真物:個人蔵・京都国立博物館管理)

海援隊といろは丸事件

海援隊約規

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福岡孝弟や後藤象二郎の計らいで、慶応3(1867)年4月、龍馬や中岡慎太郎の脱藩罪が許され、亀山社中は海援隊に改編されました。この時に明文化された規則が「海援隊約規」。5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表しています。(弘松家寄託)

龍馬書簡(慶応3年5月8日) 三吉慎蔵宛 *複製

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いろは丸衝突沈没事件(慶応3年4月23日)のあと、長崎での談判となり、龍馬は場合によっては、相手の紀州藩と一戦交える覚悟を整えました。「もし自分に万一のことがあれば、下関にいる妻お龍を土佐に帰すまで預かってもらえないか」という遺書めいた書簡です。この時は「万一」にならなかったのですが、龍馬暗殺ののち、三吉はこの手紙での約束を守りました。(真物:下関市功山寺所蔵・下関市立歴史博物館管理)

大政奉還から暗殺

龍馬書簡(慶応3年6月24日) 姉・乙女、おやべ宛 *複製

13慶応3年6月24日姉乙女、おやべ宛(複製)全文.jpg

姉乙女から来ている手紙がたまっていたのか、それに細かく答えています。養子清次郎の頼りなさを訴え、海援隊は商売ばかり......と言うが、どこからも金が入らぬから仕方がない、後藤象二郎は悪い役人というが、今は大政奉還に向けて一番の同志であること、京都へ出ていきたいという乙女に、思い留まらせる説得など、かなりの項目があり、長さは5メートルにも及びます。この中で「今や五百人や七百人の人を率いるより二十四万石(土佐藩)を率いて天下国家に尽くすのがよい(意訳)」と自分が土佐一国を動かすという自負もうかがえます。(真物:京都国立博物館所蔵〈国指定重要文化財〉)

龍馬書簡(慶応3年10月13日) 後藤象二郎宛

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いよいよ大政奉還の可否を決める日。龍馬は二条城へ登城する後藤に決死の覚悟で臨めと檄文を送った。しかし、よほど力が入ったのか「(後藤)先生」を「生生」と書き損じ、これを下書きとして手元に残した。このときの緊張と高まりが直に伝わる第一級資料である。

龍馬書簡(慶応3年11月初旬)

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土佐藩参政・後藤象二郎に、越前福井藩を訪れた内容を報告した書簡の草稿と考えられます。後藤に送った原本は発見されていません。
大政奉還後の10月24日、龍馬は後藤と相談の上、越前福井藩へ向けて出発しました。龍馬の目的は、大政奉還後の政治体制について松平春嶽の考えを聞くことと、新政府の財政問題の解決方法を三岡八郎に聞くことでした。新国家には春嶽の力が必須であるため、本来なら後藤が行くべきでしが、後藤は土佐にいる山内容堂へ報告のため帰国し、代わりに龍馬を派遣しました。

龍馬書簡(慶応3年11月13日) 陸奥宗光宛

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暗殺2日前の手紙で、現存する中で最後の手紙です。内容は海援隊の中で龍馬が期待をかけていた陸奥との刀談義で、この時期にしてはのどかな話ですが、龍馬の刀剣趣味は並々ではなかったそうです。自然堂は慶応3(1867)年から龍馬とお龍が住んだ下関の家の名称からとった龍馬の変名であることから慶応3年と推定されます。

暗殺現場にあった屏風と掛軸 *複製

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龍馬と中岡慎太郎が斬殺された部屋には、屏風と掛軸があり、飛び散った血痕がありました。屏風は、絵や書簡、短冊など19点の貼交屏風で、猫と牡丹の絵には53滴の血痕がついています。左上の富士図は狩野探幽の作。また、右下の手紙は忠臣蔵四十七士の一人、間十次郎のものです。掛軸は、暗殺当日、板倉槐堂が持ち込んだもので、掛軸の白梅と椿の絵は、槐堂自身が描いたもので、上部の漢文は2人の暗殺後、海援隊の長岡謙吉がこの事件について記したものです。(真物:京都国立博物館所蔵〈国指定重要文化財〉)