記念館周辺散策マップ
Walking map

浦戸・長浜地区探索マップ
Urato Nagahama Walking Map

種間寺

四国八十八箇所霊場の第34番札所です。

(問)088-894-2234

若宮八幡宮

鎌倉時代から続き、長宗我部元親公ともゆかりの深い神社です。

(問)088-841-2464

長宗我部元親公初陣像

長宗我部元親公初陣像は、没後400年にあたる平成11(1999)年5月23日、地元有志によって建立されました。桂浜からはりまや橋に向かう道路沿いに見ることができます。

伝・長宗我部信親の墓

信親は永禄8(1565)年、岡豊城で長宗我部元親の長男として生まれました。天正14(1586)年10月、豊臣秀吉から九州出陣の先陣としての命を受け、22歳の信親は父・元親と共に3千の兵を率いて、九州統一を目指す薩摩の島津義久率いる3万の大軍を征伐する為、豊後(現大分県)に出陣。12月12日夕刻、長宗我部軍は中津留河原周辺に集結しました。薩摩軍1万8千が一斉に攻めかかり、元親の消息も分らぬまま孤立した信親は激闘の末、部下7百余人とともに討死。遺体は薩摩軍の手により埋葬されましたが、元親の命を受けた家臣が、薩摩より遺体を荼毘に付して遺品とともにもらい受け、浦戸の天甫寺に葬り供養していましたが、長宗我部氏の滅亡後、雪蹊寺に移され現在に至ったと伝えられています。

秦神社

明治初年、雪蹊寺が廃寺となったため、安置されていた長宗我部元親の木像などを御神体として創建されたもので、"秦(はた)"の名は、長宗我部の先祖が秦姓であったことに由来しています。

雪蹊寺

四国八十八箇所霊場の第33番札所です。

(問)088-837-2233

鶴田塾跡

鶴田塾は土佐藩の参政吉田東洋の開いた塾で、後藤象二郎や福岡孝弟、岩崎弥太郎らも育った塾です。東洋は安政元年江戸出府中に、山内家の親戚で旗本の松下嘉兵衛に無礼をし蟄居を命ぜられました。この塾はこの蟄居中に開いた塾です。

長宗我部元親の墓

元親は天保8(1539)年、岡豊城主・国親の子として生まれました。永禄3(1560)年5月、22歳で長浜合戦で初陣を飾り、同年・父・国親の死後は戦陣に明け暮れ15年で土佐を統一、続いて10年をかけた天正13(1585)年春、四国を平定しました。しかし、この年の8月秀吉の四国征伐の前に降伏し、土佐一国の領有を許されました。翌14年、秀吉の命を受けた豊後戸次川の戦いで、最愛の長男・信親を失いました。戦国武将であった元親は、その後政治家としての面目も発揮します。今に残る長宗我部地検帳や長宗我部元親百箇条などの法令を制定し、大高坂城(高知)を経て浦戸へ移転し、浦戸城主となり城下町を建設しました。慶長4(1599)年5月19日、61歳。伏見の邸で亡くなりました。

高知桂浜郵便局

高知桂浜郵便局では、郵便物に坂本龍馬銅像・桂浜竜王岬・坂本龍馬記念館をあしらった消印を押印してくれます。取扱い時間は月曜日~金曜日の午前9:00~午後17:00です。

(問)088-842-3986

六体地蔵 一領具足の碑

六体地蔵は、昭和14(1939)年12月、野市町吉祥寺の住職堀川善明尼が、一領具足の供養のため、広く浄財を募り建立したものです。一領具足の碑は、土井晩翠の詩、寺石正路撰文、野村茂久馬の書による碑で六体地蔵の横に建っています。