龍馬FAQ
FAQ

龍馬の写真は全部で何枚あるのですか。何歳から何歳に撮ったものが多いですか。また、撮影場所についての定説が出てきた理由はなんですか。

龍馬の写真の枚数を断言することは難しいですが、種類は「6種類」と言えるでしょう。それぞれの写真の違いは、例えば福井で撮影された説のある写真(下記の写真F)は、親しいに人にあげていたものなので、現在は下関市立歴史博物館と東京龍馬会が同じ写真を所有しています。立ち姿のものも、ガラス原板は高知県立歴史民俗資料館が所有していますが、鶏卵紙に焼いたものは2枚以上確認されています(1枚は伊藤家所蔵、もう1枚は行方不明)。鶏卵紙の写真は、親しい人に渡していたので、まだ他にも龍馬の写真が存在しているかもしれません。

以下、便宜上、6種類を次のように表記します。

写真A:立ち姿の写真。桂浜の銅像のモデル(コロジオン湿板と鶏卵紙2枚が確認されている。)

写真B:椅子に座ってブーツを履いている写真(鶏卵紙1枚)

写真C:伊藤助太夫と使用人と撮った3人の写真(鶏卵紙1枚)

写真D:上半身だけの写真(所在不明の鶏卵紙1枚と複写されたと思われるものが3枚)

写真E:海援隊士と撮った写真(所在不明の鶏卵紙1枚)

写真F:縁台に座った写真(鶏卵紙2枚)

撮影された年齢を確定することはできませんが、おそらくすべて慶応元(1865)年から慶応3(1867)年に撮られたものと推測されています。数え年で31~33歳の頃ということになります。

撮影場所についての定説が出てきた理由については、まず、写真スタジオの特徴が出ている写真は簡単にわかります。写真Aは、寄りかかっている台が上野彦馬スタジオの特徴です。また、上野彦馬スタジオには段差があります。写真A、B、Cこれら3種類の写真の手前には、すべて段差が確認されます。写真Dは、服装や髭の具合から写真Aと写真Bと同じ時に撮られたことが考えられているので、スタジオも同じ上野彦馬スタジオを考えらています。写真Eはよく分かっていませんが、長崎で撮った可能性が高いことから、上野彦馬スタジオではないかと考えています。写真Fは、背景に菊の花が写っていることから、秋ごろに撮られたのではないかと思われます。また、額の生え際が少々後退しているようにも見うけられるため、長崎で撮られたものより後で撮られたのではないかと考察されていることから、慶応3年の秋である可能性が高く、福井に行ったときに撮られたものではないかと想像されています。ただし、これは推測の域を出ないものであり、福井説を否定する研究者もいます。

龍馬の年表のほとんどが1858~1861年の間が書いていないのですが、具体的にはどんなことをしていたのですか?

この期間、土佐藩を離れての活動は見られませんが、1861年には、武市半平太の手紙を持って、勤王運動の先頭を走る長州藩の久坂玄瑞のところに行っています。その後、各藩がつぶれても、国がダメになったら何にもならない。そのために志を持つものが、早く行動を起こさないと間に合わない、と言って、翌年(1862年)3月24日、江戸に旅立ちました。

龍馬の歌である「世の人は何とも云えばいえ 我がなすことは我のみぞ知る」は本来はどのような記述ですか。

「世の人はわれをなにともゆはゞいへわがなすことはわれのみぞしる」

原資料は京都国立博物館が所蔵しており、国の重要文化財の一つとなっています。

龍馬の愛刀「吉行」について詳しく教えてください。

吉行(1650~1710年)は、陸奥国中村藩(現在の福島県相馬市)の生まれで、父や兄とともに大坂で修業した後、土佐へ招かれました。鍛冶奉行となり、一町十五代五歩を給せられ東種崎町に住み、近くの九反田東鍛冶蔵(後の開成館敷地)で作刀しました。やがて陸奥守の官命を賜ったため、銘は吉行の他に、土州住吉行や陸奥守吉行などがあります。吉行の刀は新刀銘尽後集に「刀鋒鋭利南国新刀の冠たり。作は地鉄(ぢがね)細やかに匂いありて上手なり」と評価され、切れ味は土佐の刀で最もすぐれていたといいます。

龍馬は、慶応2(1866)年12月、先祖のものを持って国難に臨みたいと手紙を書き、この刀を兄権平から譲りうけることとなりました。権平は山内容堂と会うため土佐を訪れた西郷隆盛にこの刀を預けて、龍馬のもとに届けてもらいました。龍馬はその喜びを慶応3年6月24日、兄権平宛の手紙でも「京都の刀剣家が褒めてくれる」と伝えています。

常に持っていたこの刀は、暗殺された時、床の間にあり、龍馬はそれを取って応戦しました。鞘をはらう間もなく相手の刀をうけましたが、鞘に食い込み、相手の刀の先が額を切り、龍馬は先祖の刀をもって息絶えました。

龍馬の干支はなんですか。

龍馬の生まれた年は、天保6(1835)年です。その年の干支は、乙未(きのとひつじ)なのでひつじ年です。龍馬は干支とは関係ない名前です。

龍馬の生まれた坂本家はもう無いと聞きました。いつ、どうしてつぶれてしまったのですか。

本家の才谷屋は、武士相手に金貸しなどをしていたため、明治維新で武士が滅亡すると、貸した金が戻らなくなり、たちまち没落しました。坂本家(龍馬の生まれた家)は残りましたが、龍馬の兄・権平の跡をついだ直寛(養子)の時代、北海道の開拓をすべく、明治31~32(1898~1899)年にかけ、一家をあげて浦臼(うらうす)に移住しました。その後、一家は釧路や札幌に移り、ご子孫は今も北海道にいらっしゃいますが、ご当主は東京です。

「龍馬」が、最初は「良馬」と書いていたというのは事実でしょうか。

「良馬」という字が使われているのは、勝海舟「坂下良馬」(氷川清話より)、木戸孝允「坂本良馬」(何通かの手紙など)等があります。「龍」は「りゅう」と読むのが一般的で、各数も多いので、「りょう」と読むのが一般的で各数も少ない「良」の字を他の人は使ったのでしょう。

なお、龍馬を「りゅうま」と呼ぶことがありますが、これは明治16(1883)年に発行された、龍馬を主人公にした坂崎紫瀾(しらん)の小説「汗血千里駒(かんけつせんりのこま)」に坂崎がふりがなをうったものが定着したといわれています。

龍馬という名前は一見すると「りゅうま」と読んでしまいます。坂本龍馬の場合、なぜ「りょうま」と読むことがわかったのですか。

慶応3年1月20日の姪・春猪宛の手紙の文末に「正月 廿日夜 りよふより 春猪様」と書かれてあります。「りよふ」は今の仮名遣いでは「りょう」と書くので、「りょうま」となります。

坂本龍馬銅像の懐手の本当の理由はなんですか。

龍馬の懐手については、一般に「鉄砲を持っている」「寺田屋で負った傷を隠している」「万国公法(本)を持っている」という3つの説がよく言われていますが、本当のところはわかっていません。

坂本龍馬はいつ、どこで生まれたのですか。

天保6(1835)年11月15日、郷士御用人坂本八平直足の次男として高知城下本丁筋に生まれました。ちなみに、亡くなったのは慶応3(1867)年11月15日、京都近江屋で、中岡慎太郎といるところを刺客に襲われ、33歳の生涯を終えました。

龍馬が愛用していた銃は今どこにありますか。

龍馬が愛用していた短銃は、紛失と焼失により現存しません。寺田屋事件で使用し、紛失したのが、(1)スミス&ウェッソン銃Ⅱ型(32口径、六連発)です。慶応元年に初めて持った短銃になります。

大正2年の釧路大火で焼失したのは、(2)スミス&ウェッソン第Ⅰ 1/2型ファースト・イッシュ―(五連発)。近江屋暗殺の時も所持していました。

龍馬が19歳の時、江戸に剣術修行へ行って帰ってからの龍馬の職業は何ですか。龍馬は脱藩するまで、どのようにして生計をたてていたのですか。

職業はありません。当時は長男がその家を継ぐので、龍馬の兄権平が、坂本家の家計をにぎっていました。龍馬は「居候」となって、父や兄に養われていました。当時は、長男が家計を継ぐというのが一般慣習だったので、次男以下は居候という身分が多いのですが、そのままでは大変なので、他家に養子にいってその家を継ぐ、剣道などを教える道場を開いて独立する、自分が修得した技術で生計を立てる、などしていたようです。

龍馬は、勝海舟の門下生になってからは、その仕事で収入を得ていました。また、亀山社中になってからは、薩摩藩から3両2分を給料としてもらっていたようです。

龍馬の名前の下に「直柔」とありますが、これは何ですか。また、女性にも、このような名前の下にまた名前をつけるという風習があったのですか。また、この風習はいつまで続いたのでしょうか。

普通、武士とよばれる人たちは2~3の名前を持っていました。

(1)子どもの頃から普段よばれている名 「幼名、通称」=「龍馬」

(2)正式な手紙などの署名に使用する名 「実名、諱」=「直柔」

(3)絵や詩を書いた時などに使用する名 「号」=なし

(4)追われる身のため、隠れ蓑にする名 「変名」=「才谷梅太郎」等

「直柔(なおなり)」とは、戸籍に登録する名前、実名にあたります。武士は元服の時にこの「諱(いみな)」をつけてもらうようですが、龍馬がいつ元服したのかわかりません。

最初は「直陰(なおかげ)」と名付けたようです。慶応元年12月頃までは、「直陰」を使っていたようであり、「直柔」に代わるのはそれ以後のことと思われます。いつ変えたのかは、資料がないので、はっきりとわかりません。

諱を署名した手紙は「直陰」=4通、「直柔」=8通しかないので、一般的にはあまり使わないのが普通だったようです。

「諱」を付けることは、一部の武士、公家の慣習です。女性に付けられることもあったようですが、乙女やお龍には諱はありませんでした。武家、公家制度が廃止された明治には、この風習もなくなったということになります。

龍馬がお龍と出会ったのは、2人が何歳の時ですか。また、龍馬が亡くなった後、お龍は龍馬からの手紙などを燃やしたと本に書いていたのですが、それはなぜですか。

お龍の父・楢崎将作は、安政5(1858)年に勤王運動の取り締まり(安政の大獄)で捕まり、翌年釈放されましたが、文久2(1862)年に病死します。これ以後、お龍の母が生計を立てるため、志士たちの隠れ家だった方広寺へ、食事などの世話係として通っており、お龍も方広寺に出入りしていました。文久3(1863)年、そこで龍馬とお龍は出会ったと考えられています。龍馬29歳、お龍23歳のときです。お龍の回顧録によると、元治元(1864)年に龍馬と結婚したとありますが、龍馬の手紙でお龍のことを妻と明記するのは慶応2(1866)年12月4日の手紙からです。慶応元(1865)年9月9日の姉乙女にあてた手紙の中で、龍馬はお龍に渡すものとして、小笠原流の礼儀の本、和歌の本、乙女姉さんの帯か着物をねだっています。慶応2(1866)年1月23日夜、薩長同盟を結んだ後、寺田屋でくつろいでいた龍馬が伏見奉行所の人らに取り囲まれた時、それを早く知ったお龍が風呂から飛び出して龍馬に「急」を伝えたため、龍馬は捕まらずに逃げることができました。この事件の後、龍馬は命の恩人となったお龍と結婚したようです(慶応2年3月頃)。龍馬が死んだ後、土佐にきたお龍は坂本家に入りますが、周りは知らない人ばかりで、暮らし方も違うことから、次第に嫌になり、現在の芸西村(高知市から東に約30km)に嫁いできていた妹君枝のところに立ち寄った後、土佐を去りました。新しい気持ちで立ち直ろうと手紙を焼いて、過去を清算したかったのではないでしょうか。

龍馬の死後、遺体はどのように、どこへ搬送されたのですか。また、遺族はどう過ごしたのでしょうか。

京都市東山区の霊山(りょうぜん)墓地(現在の護国神社の裏山)に葬られました。この時、海援隊や龍馬を支持する仲間たちが、暗殺現場の河原町三条下ルから葬列を組み、墓地へ向かったといいます。なお、墓地には龍馬の他、中岡慎太郎、下僕藤吉のお墓も並んでいます。

遺族は、妻お龍が龍馬暗殺当時下関にいましたが、4か月余りの後、慶応4(明治元=1868)年4月から土佐の坂本家に行きました。土佐には翌年夏まで1年余りいましたが、生まれ故郷の京都に帰った後、江戸に出ます。その後、西村松兵衛と再婚します。お龍は横須賀で死去、お墓は同市信楽寺(しんぎょうじ)にあります。

坂本龍馬はアメリカに行ったことがありますか。

龍馬は、アメリカはもちろん、海外へは行った記録は、今のところ見つかっていません。

川原塚茂太郎宛書簡には、海外に対する思いが次のように語られています。

「(前略)其文にも勢によりては海外に渡り候事も、これ有るべき故猶さら生命も定兼候と。(後略)」この書簡は、義理の兄(兄嫁の弟)に出した書簡ですが、兄・権平に自分(龍馬)が土佐へ帰ることは期待せず、早く養子を迎えるように伝えてほしいという思いを書いた手紙です。その中で、自分は海外へ行くかもしれないとほのめかしています。

龍馬の身長、体重はどのくらいですか。

残っている紋服などから、以下のように想像されます。

 身長:173~179cm 体重は分かりません。

 紋服の寸法は下記のとおりです。

 着丈:149cm、肩巾:32cm、袖丈:50cm、袖巾:33.5cm、裄丈:65cm、前巾:26cm

 後巾:30.5cm

龍馬はいくつ変名を使っていたのですか。

「西郷伊三郎(さいごういさぶろう)」(この名前で手紙を送ってほしいと家族に依頼)

「才谷梅太郎(さいだにうめたろう)」(手紙の署名として使用)

「取巻の抜六(とりまきのぬけろく)」(慶応2年11月、手紙の署名として使用)

「大浜涛次郎(おおはまとうじろう)」(慶応3年5~6月、手紙の署名として使用)

「高坂龍次郎(たかさかりゅうじろう)」(慶応3年2月、手紙の中に登場)

「自然堂(じねんどう、または、じぜんどう)」(下関・伊藤家の一室の名前、龍馬の号のようなもの)

以上、変名5種類、号のようなもの1種類となります。

坂本龍馬の髷(まげ)は他の人々に比べて平たいようですが、身分やその藩によって色々あるのでしょうか。

通常、武士は、月代(さかやき)といって頭の中心部を削り、両端に残った髪の毛を真ん中の後ろの方の髪の毛と束ねて元を締め、その先を頭の上にのせて髷にします。龍馬は月代を作らず、髪全体を後ろに束ねてしばり、そのままにしているか、束ね紐で髷をしているか、のどちらかで「総髪(そうはつ)」と言っています。龍馬は浪人という自由な身なったので、髷を自由にしていたのではないでしょうか。なお、髷は藩によっての流行があり、土佐藩では月代を細く削るのが流行でした。また、身分でも違いがありました。

龍馬の真実を知る、お勧めの本があれば教えてください。

龍馬研究の本は色々出版されています。その中で次の4冊をおすすめします。

 ・土居晴夫『坂本龍馬の系譜』(新人物往来社)

 ・山田一郎『坂本龍馬-隠された肖像-』(新潮社)

 ・平尾道雄『坂本龍馬のすべて』(高知新聞社)

 ・新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』(新人物往来社)

さらに挙げるとすれば、下記の3冊です。

 ・池田敬正『坂本龍馬』(中公新書)

 ・平尾道雄『坂本龍馬 海援隊始末記』(中公文庫)

 ・飛鳥井雅道『坂本龍馬』(福武書店)

他にもよい研究書がたくさんあります。ぜひ、色々な本を手に取ってみてください。

龍馬に子どもはいましたか。

龍馬はお龍と結婚しましたが、子どもはいません。他の女性との間にも子どもはいません。明治4年8月に龍馬の姉、千鶴の息子「髙松太郎」が朝廷の沙汰により、養子として坂本龍馬の跡目を相続し、坂本直と改名しました。

龍馬は人を切ったことがありますか。

龍馬が人を切ったという記録は、海援隊士・関義臣の回顧録に出てきます。他人の妻と関係を持った水夫を斬ったというものです。また、寺田屋で戦った時には、ピストルで応戦し、奉行所の役人を撃っています。刀は脱出の時に使ったようです。「寺田屋から逃げる時、裏の家の戸や建具などを槍や刀で壊して通れるようにした。なかなか丈夫な家で壊しにくかった...」と龍馬が兄の権平宛に手紙を書いています(慶応2年12月4日)。

龍馬の血液型は何型ですか。

わかりません。

血痕のある屏風、掛軸(京都国立博物館蔵)についている血痕を調べれば、わかるかもしれませんが、実際には調べていません。それらの血痕が本当に龍馬の血であるという証明は、墓を掘り起こして骨や毛髪などの残っているものと照合しない限り断定できないのです。

坂本龍馬の家紋の名前を教えてください。

「組み合い角に桔梗紋(くみあいかくにききょうもん)」といいます。この家紋は土岐氏の系脈に多い桔梗紋の一種で、単弁の桔梗紋です。

なお、坂本家6代目・坂本直益の死後、13年後に亡くなった直益の妻・さわの墓についているものが、確認される最初のものになります。直益までは「丸に田紋」を用いていました。直益の長男・直海を分家させて、郷士坂本家が誕生しますので、その際、郷士坂本家用の家紋を作ったと考えることもできますが、断定はできません。

坂本龍馬の名前の表記が「龍馬」と「竜馬」とあるのはなぜですか。

当館では、龍馬自身が「竜」の字を用いたことは一度もないので、「竜馬」という表記は絶対にしないようにしています。しかし、新字体として制定されているのは「龍」ではなく「竜」の方なので、教科書や新聞などでは、「竜」の字を使うことがあると思います。当館はこだわって「龍馬」と表記していますが、歴史上の人物すべてを旧字で表記することは不可能ですので、他の人物の場合は新字体で表記することもあります。

「竜馬」が一般的になったのは、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の影響だと思います。司馬氏は「小説の中では僕のリョウマを動かすのだから竜馬にした」と語っておられたそうで、実在した龍馬と架空の竜馬を漢字によって区別したそうです。

龍馬は靴や最新式の拳銃を所持していたそうですが、どのようにして彼の手に渡ったのでしょうか。また、拳銃の使い方は、外国人から教わったのですか。それとも書物で読んだのか、日本にあった鉄砲と同じような使い方だったのでしょうか。

龍馬の所持品についてですが、靴も拳銃もいつどこで入手したか、明確には分かりません。靴は、長崎で入手した可能性が一番高いのですが、残念ながら資料としては残っておりません。また、拳銃は、薩長同盟締結後、寺田屋で襲われた時の様子を木戸孝允に知らせた書簡(慶応2年2月6日)の中で、「かの高杉より送られ候ピストールを以って打ち払い」とありますので、高杉晋作から貰ったものだと分かります。しかし、その時の戦闘の最中に弾倉を落としてしまい、拳銃もその場に捨てたようです。高杉晋作には、薩長同盟締結前の慶応元(1865)年に、下関へ行った時に会ったと考えられますので、その時にピストルを送られたのではないかと推測されています。その後、龍馬は寺田屋で受けた傷の保養を兼ねて、薩摩へ新婚旅行に行きますが、「短筒(ピストル)をもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかりき。」(慶応2年12月4日)と乙女姉さんに報告していますので、すぐに代わりの拳銃を入手した事になります。その入手先は残念ながら分かりません。拳銃の使い方をどこで習ったかもはっきりとは分かりません。

龍馬は、江戸での剣術修行中に、佐久間象山について砲術を習い、土佐でも徳弘菫斎について砲術を習っていすので、大砲や銃についての知識は持っていたようです。しかし、短銃まで習っていたかは分かりません。ちなみに、1867(慶応3)年6月24日乙女・おやべ宛書簡には、妻のお龍がピストルを練習している様子が、「此頃ピストルたんぽうは大分よく発(うち)申し候」と報告されています。

龍馬が近江屋で中岡慎太郎をいたところを刺客に襲われ、暗殺されますが、その際の最後の言葉を教えて下さい。刺客に襲われ深手を負い、もう駄目だと自覚した際の言葉はなかったのですか。

龍馬はほぼ即死でしたが、一緒に襲われた中岡慎太郎は龍馬より2日長く生きており、意識もはっきりしていましたので、襲われた時の様子を駆けつけた人に語っています。その話をまとめたものの中から、龍馬の最期の言葉を抜き出してみます。

まず、『谷干城遺稿』(明治45年)ですが、「すっと起上がって行燈を提げて階下段の傍まで行った。そして其処で倒れて、石川(中岡の変名)刀はないか、と二声三声言ふて、それでもう音が無い様になった。」とあります。

次に、『男爵安保清康自叙伝』(大正8年)ですが、「其安否ヲ問へバ彼曰く、我既ニ脳ヲ斬ラレタリ、助命ノ望ナシト一言シ、伏シテ復ビ声ナシト。」とあります。

最後に、『伯爵田中光顕自叙伝』(大正15年)ですが、「(前略)其時坂本は僕に向ってモウ頭を遣られたから駄目だと言ったが僕も是位遣られたからとても助かるまい(後略)」とあります。

以上、三人の資料を紹介しましたが、三人とも龍馬と慎太郎の遭難直後に駆けつけていますが、かなり信用できる話だと考えらています。

龍馬の身長はどうしてわかったのですか。

龍馬の身長についてですが、明治以後に龍馬の身長について語っている人は3人います。

3人によると、

田中光顕(元陸援隊士):5尺7寸(173cm)

関義臣(元海援隊士):5尺8寸(176cm)

信太歌之助(元幕臣):5尺9寸(179cm)

となっています。

さらに、京都国立博物館には龍馬の紋服が所蔵されており、その大きさと、現代人の標準寸法とを比較してみると、170cmより少し大きいくらいではないかと推測できます。龍馬の身長をはっきりと確定させる事はできませんが、いずれにしても平均身長150cm台の時代に、170cmを越えていたので、かなり大柄な人物だといえます。

龍馬が飲んでいたお酒の特徴などわかりますか。

資料が残っていないので詳細は不明です。

当時から現在まで続いて造られている酒は、佐川町の「司牡丹」があります。この名称は、佐川町出身の田中光顕が命名したものです。佐川町出身の勤王家はたくさんおり、龍馬ともつながりが深かったので、龍馬も現在の「司牡丹」にあたる酒を飲んだ可能性はあります。

ちなみに、坂本家の本家である才谷屋は、一時期、酒造業もしていました。才谷屋の酒造権利は、後年「司牡丹」が経営拡大のため買い取っています。なお、詳しくは、郷土史家の広谷喜十郎氏によって『高知県酒造史』にまとめられています。

龍馬は誰に殺されたのですか。

龍馬暗殺については、「京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)ら7名」の説が現在では最も有力視されています。しかし、証言者である(1)今井信郎(2)渡辺篤(3)中岡慎太郎の証言が食い違っているため、確実なことがわかりません。なお、今井は3回証言していますが、一貫性がありません。また、中岡慎太郎の最期の言葉を後世に伝えた人が3人いますが、この人たちの言葉にも統一性がありません。そして、証拠物件や文書には、新選組説や薩摩藩が黒幕だと考えられるものもあり、これらのことが謎を深める大きな要因になっています。現在のところ、実行犯や黒幕を断定できる決定的な資料はありません。

龍馬は梅毒にかかっていたのですか。

高知出身の思想家・幸徳秋水は、自由民権家の中江兆民に師事しており、その兆民の事績をまとめた著書『兆民先生』の中で、兆民が龍馬のことを「其額は梅毒の為抜上がり居たり」と言っていた、と書いていますが、梅毒で髪が抜けることはないようです。兆民以外で、龍馬のことを梅毒に罹患したと語っている人はいない上に、兆民自身が龍馬と特に親しかったわけでもないので、兆民の勘違いということは十分に考えられます。

『英将秘訣』と龍馬の関係を、今わかっている範囲で教えて下さい。

『英将秘訣』は、大正3(1914)年6月に発行された千頭清臣著『坂本龍馬』ではじめて紹介されたものです。当時は、確信はないものの、龍馬が語ったものだと信じられていたようです。その後、研究が進み、おそらく平田派国学者志士グループの中に生まれたものであろう、と推定されています(平尾道雄著『新版 龍馬のすべて』1985年、高知新聞社発行)。『英将秘訣』は、1863(文久3)年におきた足利将軍3代の木像梟首事件の際に、会津藩士広沢安任によって押収されたものです。その広沢の手記によると、『英将秘訣』の作者は龍馬ではなく、平田派の学者と考える方が無難であり、現在では龍馬とは無関係とする説のほうが大勢を占めているようです。現代では、龍馬は英雄史されおり、『英将秘訣』の中から格好良い言葉(「世に生利を得るは事を成すに在り」、「衆人皆善を為さば、我独り悪を為せ」など)だけをとって、さも龍馬が言った言葉のように書いている書物もありますが、『英将秘訣』には非常に危険な思想を含んだ言葉(「人を殺す事を工夫すべし。刀にではケ様のさま、毒類にては云々と云事をさとるべし。乞食など2,3人ためし置くべし。」など)もあり、龍馬の言葉とは思えないものも多くあります。

中岡慎太郎の像はどの方向を向いて立っているのですか。その理由はなぜですか。

中岡慎太郎の像は南向きに立っています。桂浜の龍馬の方に向いて立っているといわれますが、二つの銅像は向き合っていません。もし、そうするには、かなり北西を向かせる必要があります。そうなると、銅像の顔が陰になる時間が長くなるので、避けたのだと思われます。

海援隊・陸援隊の活動、あるいは役割について教えて下さい。

海援隊は土佐藩に属する商社で、物を運んだり、商売をしたりしていますが、いざという時は、土佐藩を船で応援する役目もあります。

一方、陸援隊も土佐藩に属する集団で、平時の諜報活動と、非常時には陸軍として活動するはずで、倒幕の戦いに参加することを想定していました。しかし、隊長の中岡慎太郎が生きている間に実戦は行われず、慎太郎の死後、副隊長の田中光顕を中心として、高野山で挙兵し、戊辰戦争に参加していきました。

龍馬は、仁井田の川島家や坂本山の田中家によく遊びに行った、とありますが、両家は坂本家とどのようなつながりがあったのでしょうか。また、そこまでの距離や子どもの足でどのくらいの時間がかかったのでしょうか。

「川島家」は龍馬の二人目の母(継母)の伊与の里にあたるところで、坂本家とは前々からつきあいのあった家で、伊与が後添えとして坂本八平の後妻となったのもその縁からです。当時の川島家当主の伊三郎は「ヨーロッパ」という呼び名もあったくらいの外国通で、世界地図など海外の資料を豊富に持ち、龍馬もそれを見るのを楽しみによく通ったといわれています。高知城下からその辺りまで、手漕ぎの船で30~40分くらいでしょうか。

田中家は坂本家の山や領知の管理をしていた人で、当主は当時良助といい、龍馬より16歳年上でした。多趣味な人で鉄砲も扱い、龍馬のよき兄貴分だったでしょう。萩の久坂玄瑞に会いに行く文久2(1862)年10月14日、ここで旅費として2両借りたことが今も残っている証文で明らかです。

龍馬の手紙で「おやべ」にあてたものがありますが、それは乳母のことだと説明するものもあれば、春猪だというものもありますが、どちらが正しいですか。

春猪=おやべ、が正解です。

「おやべ」は、元治元(1864)年、龍馬が30歳の時に子どもができています。ということは、ある程度若い年齢ということになります。慶応元(1865)年9月7日には、「最早、風が強くなってきたので、南町にいる乳母に何か綿の物を送ってやってほしい」と家族に頼んでいることから、乳母は高齢者ではないかと想像できます。したがって、「おやべ=乳母」は考えられません。

また、使用人だとすると、西の部屋の縁側で日向ぼっこをして、猫を抱いて大口開けてゲラゲラ笑っているという龍馬の手紙の表現と合いません。そんなにのんきな、甘やかされた使用人はいないはずなので、「おやべ」は使用人でも乳母でもないことになります。

さらに、アバタがあって、白粉を塗れ、と龍馬によく言われます。これは「春猪」のところでも出てくるので同一人です。

岡田以蔵と龍馬の関係を教えてください。

岡田以蔵は龍馬より3歳年下で、天保9(1838)年、現在の高知市北部江の口村に生まれました。土佐藩の郷士で、武市瑞山に剣術を習い、その後江戸に出て、武市も学んだ桃井道場に入門しました。以後は、文久元(1861)年に武市を党首として結成された「土佐勤王党」に入り、武市の忠実な部下となりました。文久2(1862)年、江戸に出ると、勤王運動に反対する者に対し人斬りをはじめ、「人斬り以蔵」と人々に恐れられました。文久3(1863)年には、神戸の海軍塾にいた龍馬と交流があり、龍馬が最も尊敬し、師でもある勝海舟の暗殺を以蔵が未然に防いだこともありました。

その後、幕府の力が強くなるとともに以蔵も狙われ、「八月十八日の政変」後の勤王党弾圧で、元治元(1864)年土佐藩によって捕らえられ、厳しい拷問を受けました。そして慶応元(1865)年閏5月、28歳のとき、武市瑞山と同じ頃に処刑されました。

お龍が龍馬の死後、高知の龍馬の実家で暮らしていたのに長続きしなかった理由はなぜですか。また、お龍は黒髪が美しいといわれていたそうですが、龍馬の法事で髪を切る前はどのくらいの長さだったのですか。

龍馬の死後、約3か月(12月~3月)を、長州の三吉慎蔵の家で過ごし、慶応4(明治元)年3月、土佐の坂本家に来ます。お龍の気性や、坂本家のお龍に対する見方が厳しかったとか、色々ある中で嫌気がさし、芸西村に嫁いでいた妹(君枝)のところに立ち寄り、手紙などを整理し、一年足らずで京都に戻りました。

お龍の髪の長さはわかりません。

河田小龍は藩の絵師とありますが、藩にはお抱えの絵師がいたのですか。

河田小龍は土佐藩の船の仕事をする役人でした。藩のお抱え絵師、つまり御用絵師ではありませんが、藩の仕事で反射炉を描くため、薩摩に出張したこともあります。

ジョン万次郎は鎖国中なのに、どうして帰国できたのですか。河田小龍とはどうして会うことができたのですか。

1851~52年頃、鎖国体制はやや穏やかになっていたと思われます。最初に琉球(沖縄県)に上陸したのも、その辺の事も考えてのことだと思います。琉球での取り調べで、万次郎が船の知識や、アメリカの事など、当時未知の世界だったことを詳しく知っている貴重な存在であることがわかり、そのことが伝えられた上で、薩摩でも調べを受け、さらに長崎でも吟味を受け、1852年に土佐に戻ります。当時、小龍が蘭学を学んでいたこと、新しい事に関心を持っていたことから、小龍に預けられたかと思われます。

自分の墓に「坂本龍馬室」と記すほど、龍馬を愛していた千葉佐那について教えて下さい。彼女の情報はとても少ないので、詳しく知りたいのです。

龍馬は19歳の時に、江戸に剣術修行に出ます。北辰一刀流の千葉定吉の千葉道場に入門し、その千葉家の長女佐那に出会い、恋心も持ったようです。乙女姉さんへの手紙にも、佐那のことを書いています。「この人は佐那といいます。今年26才で、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀(なぎなた)もでき、力は普通の男より強い。うちに前居たぎん(*奉公人か)くらいですよ。顔形も私の初恋の平井加尾よりもっと美人です。お琴を弾き、絵も上手、それに、静かな人です。平井にかわって、今一番好きな人。」と紹介しています(文久3年8月14日)。この頃までは千葉道場にも出入りし、佐那とも会っていたと思いますが、その後、勝海舟と共に神戸の海軍塾づくりに精を出し、神戸、長崎と移り、慶応元年には亀山社中を開くなど、龍馬の活躍の舞台が江戸から遠く離れてしまったからか、縁が切れてしまいました。それでも、佐那は独身を通し、「私は龍馬と婚約していた......」と話していたそうです。「私は心を定めて良い縁談を断り、ただひたすら坂本さんを待ちました」と一生龍馬を慕って、他界した佐那の墓石(自然石)の裏には「坂本龍馬室」と刻んであります。

山梨県甲府市の日蓮宗清運寺に千葉佐那の墓があります。もともと上野の谷中にあったものを、交際のあった自由民権運動家の小田切謙明の妻・豊次が無縁仏にならないようにと自分の住む甲府に分骨して埋葬したものです。

龍馬のお葬式で、お龍は何をしましたか。

お龍は龍馬が暗殺されたとき、下関の伊藤助太夫邸に預けられていたので、お葬式には出席していません。

お龍が、西村松兵衛と再婚した時期はいつですか。

お龍の再婚時期は、明治18(1885)年となっている本が多いのですが、実際には明治8(1875)年に西村松兵衛と入籍したようです。原本を確認したわけではありませんが、戸籍が資料として紹介されているようなので、信ぴょう性は高いと思われます。一方で、入籍が明治8年というだけで、それ以前から結婚していた可能性は否めません。ただし、龍馬が死んだ直後のお龍は、長州の三吉慎蔵宅や、高知の龍馬の実家、妹・君枝の嫁ぎ先である菅野覚兵衛宅などを転々としていたので、龍馬がなくなった直後に再婚したということはありません。

お龍の再婚相手である西村松兵衛は、近江の蒲生郡金田村に弘化3(1846)年生まれ、お龍より5歳年下でした。お龍とは明治7,8年に知り合ったという説もあれば、寺田屋に出入りしていたころに知り合ったという説もあり、はっきりしません。お龍の母と松兵衛の母が知人同士であったという説もありますが、これも確かではありません。また、松兵衛は横須賀に出ますが、横須賀海軍の御用商人であったという説もありますが、これも確証はありません。

松兵衛とお龍は、お龍の妹・光枝の子どもを養子として迎えますが、18歳で亡くなったそうです。

宮地佐一郎氏の『龍馬百話』によると松兵衛は「背のすらりと高い、面長の、商人上がりの温厚な人であった。どっちかと言えば無口な方で、お世辞も言わなければ、おべつかも使わない。めったに怒った顔を見せた事がないという男」だったそうです。

(参考:近江歴史回廊倶楽部、http://ohmikairou.org/col328.html 近江八幡市立博物館長の聞き取り話が基となっている)

慶応2年の龍馬とお龍の新婚旅行でどこをまわったか、詳しいコースを教えてください。

坂本龍馬手帖概要(『坂本龍馬の手紙』宮地佐一郎著に掲載、龍馬のメモのようなもの)によれば、以下のようになります。

2月29日 夜、伏見邸(伏見の薩摩藩邸)二下り乗船

3月朔日(1日) 大坂

  4日 三邦丸に乗船

  5日 朝、出帆

  6日 夕、下関に泊まる

  8日 長崎に至る

 10日 鹿児府(鹿児島)に至る

 16日 大隅霧島山の方、温泉に行き、鹿児島の東北7里(28km)ばかりのところ、浜の市に至る。但し、船で行く。日当山に至る。

 17日 塩浸温泉に至る。

 28日 霧島山へ出発、霧島温泉所で泊まる。

 29日 霧島山山上に登る。そのあと霧島神宮で泊まる。

 30日 霧島温泉所に帰る。

4月   塩浸温泉に帰る

4月8日 日当山に帰る

 11日 浜の市に帰る

 12日 浜の市から舟にのり鹿児島へ帰る

 14日 改正所(藩の事務所か?)に至る

5月1日 桜島丸、鹿児島に来る

6月1日 桜島丸に乗る。

 17日 関門海峡へ着き、海戦を行う。

龍馬が脱藩した道は今でも歩ける道ですか。四国内での距離はどのくらいありますか。 また、その道を記した資料や地図はありませんか。

脱藩の道は、四国内は伊予長浜まで約170kmと言われています。今でも、歩いて越える道はかなり残っていますので、そこを整備して、その町や村が、「脱藩の道を歩こう」といって、催しをやっています。大体20~10kmくらいにして、あとは車で通るようです。催しなどは、関連の役場である、愛媛県河辺村、高知県・梼原町などが詳しいです。最近は、愛媛県長浜町も脱藩の港で町おこしを頑張っています。

資料については、新人物往来社から出ている『共同研究・坂本龍馬』(1997年9月発行)という本に、坂本美津子さんが地図を入れ、交通機関や役場のことなどを書いてまとめています。ルートについての意見は色々ありますが、新旧それぞれについて、新人物往来社から新ルート『坂本龍馬脱藩の道を探る』(村上恒夫著)、旧ルート『写真集 龍馬脱藩物語』(前田秀徳著)がありますので、ご参考になさって下さい。尚、脱藩の道は殆どが未舗装の道で、それぞれの市町村が標識をたてています。

坂本龍馬のお墓は、現在どこにありますか。坂本龍馬の銅像も、現在どこにありますか。

墓は、京都市東山区清閑寺霊山町、京都霊山護国神社にあります。銅像は、高知市桂浜龍頭岬上に、太平洋に向かって建っています。その他にも、京都市円山公園など龍馬に関係がある場所にも銅像が立っています。全国各地の龍馬像を紹介しているサイトもありますので、参考にしてください。

龍馬の生家はどこですか。

龍馬の生家があった場所は、高知市上町(かみまち)1丁目です。はりまや橋から約1.5km西です。

現在、吉田茂元首相の筆による「坂本龍馬先生誕生の地」という碑がたっています。生家は戦災で焼けて跡形もありません。今は病院がたっています。

坂本家のご先祖様は明智家と何かつながりがあるのでしょうか。坂本家は、明智光秀の娘婿の明智秀満の末裔という伝承を本で読みました。本能寺の変後、土佐に逃れ、光秀の居城の坂本城の地名「坂本」を姓にして帰農し、その10代目が龍馬の兄権平であり、坂本家の桔梗紋は明智家に由来するとのことでしたが、本当でしょうか。

そのような言い伝えがあり、多くの伝記書や研究書で「明智後裔説」が紹介されています。

明智左馬之助光俊の子孫か?ということについては、明治16年に坂崎紫瀾が龍馬を主人公にした『汗血千里駒』という本を書いており、これが「明智後裔説」の初出の書物になります。その中の一説に「そもそも坂本龍馬の来歴を尋るに、其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして、江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め、一旦美濃国関ケ原の辺りにありしが、其後故ありて土佐国に下り遂に移住て」とありますが、坂本家の資料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていないため、両家の関係はわかりません。しかし、言い伝えとして、坂本家の中で受け継がれているようですから、資料がないことを理由に、否定することもできないと考えられます。

南国市にある坂本家初代の太郎五郎の墓には「弘治永禄の頃(1555~70年)畿内の乱を避け、土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とあります。これを正確なものと考えると、応仁の乱(1467~77年)以降混乱を極める畿内を避けて土佐に避難してきたと考えられます。

長宗我部元親の妻と、長男・信親の妻は、二人とも石谷氏の娘で、石谷氏は明智家と深い繋がりがあります。このことから考えても、坂本家が明智家と血縁関係があったならば、長宗我部元親を頼って、土佐に来る可能性もありえます。ただ、その場合、才谷村のような山間部ではなく、平野部の一定の領地を与えられてもおかしくはないことから、明智後裔説は疑問視されています。

ワシントン大学の方が書いた坂本龍馬の伝記を教えて下さい。

洋書の原本は以下のものです。

"Sakamoto Ryoma and the Meiji Restoration"

 Marius B. Jansen(著)、1961

 出版社 Columbia Univ. Pr

 ISBN 0231101732

 翻訳本は下記のものです。

「坂本龍馬と明治維新」(マリアス・B・ジャンセン著、平尾道雄、浜田亀吉翻訳、時事出版社、1965年初版発行、ISBN:4788700026)

マリアス・バーサス・ジャンセン博士(1922~2000年)はワシントン大学、プリンストン大学での教授を務めたアメリカ人で、ハーバード大学ライシャワー教授(駐日大使を務めたこともある人)の門下生です。1991年に日本学士院客員会員、1999年に外国人として初めて文化功労者となりました。また、1992年には大阪府が創設した日本文化に関する賞である山片蟠桃賞を受賞しました。

ジャンセン博士が龍馬の研究に着手したのは、おそらく昭和31(1956)年頃かと思われます。彼が生まれ育った環境や成長していくプロセスについて、高知で最も坂本龍馬に詳しい、故平尾道雄氏を訪ね、交友が始まったといわれます。博士は、平成3(1991)年の当館開館時に来高され、記念講演をしています。

亀山社中の構成員は何人ですか、具体的な名簿があれば教えてほしいです。また、龍馬亡き後は、各自どのような半生を歩んだのでしょうか。

亀山社中の正確な名簿はありませんが、その後身組織である海援隊は出身藩もあわせて記録されていますので、これを参考にします。

メンバーは全体で約50人(水夫、火夫含む)です。内訳は以下のとおりです。

〇土佐藩

坂本龍馬、高松太郎(龍馬の甥、のちに坂本直となって龍馬の跡をつぐ)、石田英吉(のち千葉県知事や高知県知事)、菅野覚兵衛(すがのかくべえ、のちに海軍少佐。龍馬の妻お龍の妹君枝と結婚)、長岡謙吉(海援隊書記、龍馬の死後海援隊隊長)、新宮馬之助(しんぐううまのすけ、龍馬と幼馴染、のち薩摩にうつり寺内信左衛門)、沢村惣之丞(さわむらそうのじょう、のち関雄之助、龍馬と共に脱藩し、長崎で薩摩藩士誤殺事件の責任を負って切腹)、など12名。

〇越前

関義臣(せきよしおみ、徳島県知事、山形県知事など務める)、小谷耕蔵(こたにこうぞう)ら6名。

〇越後

白峰駿馬(しらみねしゅんま、航海造船の専門家。アメリカのラトガース大学へ留学、自分で造船会社をつくる)、橋本久太夫ら2名。

〇紀伊

陸奥宗光(むつむねみつ、当時は陸奥陽之助、日清戦争の時の外務大臣として講和条約を締結し、不平等条約の一部を改訂)

亀山社中に関する本を教えて下さい。

以下のものをおすすめします。

『坂本龍馬 海援隊隊士列伝』 山田一郎著、新人物往来社

『ある海援隊士の生涯―菅野覚兵衛伝-』佐藤寿良著(絶版)

『続・ある海援隊士の生涯-白峰駿馬伝-』佐藤寿良著

龍馬は生前にたくさんの手紙を送りましたが、京都から土佐まで、江戸から土佐まで、それぞれ手紙が届くまでどのくらい日数がかかったのでしょうか。また、それぞれ手紙一通分の値段はどのくらいかかったのでしょうか。

京都から土佐まで、江戸から土佐までかかる日数は、郷土史家の広谷喜十郎氏のお話によると、

・至急便(公用便) 4日(昼夜走りっぱなし)、5日(昼夜走りっぱなし)、7日(それよりは少しゆっくり)

・普通便 半月くらい

ということです。

また、他にも

・船に乗る人にたのむ方法

・公用便に便乗させてもらう方法

・大坂、土佐では、定期の船便があり、それにたのむ方法

などがあったということです。

「ささおくり」といって、笹の葉が枯れないうちに送るという至急便もあったそうです。

いずれにしても、1人の飛脚が全部の道を1人で走るのではなく、駅(中継ぎ所)でリレー」をして届けるそうです。夜は灯りをつけて走ります、もっと急ぐものは馬で走ると思いますが、いずれにしても四国へは船で渡らなければなりません。この時間を入れて4,5日とすれば、大変早いことがわかります。

これは一例ですが、幕末に日本を訪れたイギリスの初代駐日総領事であるオールコックは、著書にこう記しています。「飛脚たちは、短距離をへだてて設けてある宿駅で交代し、万一事故に遭う時のことを考えて、いつも二人でゆく。彼らの速度はたいそう速くて、江戸から長崎や箱館へゆくのに、嵐のために川や入り江を渡ることができないというようなことがなければ、約350里(1400km)、すなわち850マイルを9日間で走る。そして、普通は遅れないし、信頼するに足る。(中略)ところで、このようにして長崎まで早便を送ると、費用は普通小判20枚、すなわち6ポンドである。」

明治のオールスターが勢ぞろいしている幕末の有名な写真がありますが、偽物説も多 いようですが、真贋はどうなのでしょうか。

該当する写真は「フルベッキ博士と佐賀藩・長崎致遠館の研修生たち」といわれているものだと思います。結論から言いますと、この写真にかかれている人物の名前も、フルベッキ博士とその子ども以外は、信憑性は極めて低いと思います。

この写真を撮ったのは、上野彦馬です。龍馬も、慶応2,3年のころに上野彦馬のスタジオで写真を何枚かとっていますが、それらと、集合写真の龍馬の姿を見比べてみると、あまりにも違いすぎることがわかると思います。写真そのものは、佐賀藩の青年たちが英語や科学を習っていたフルベッキ博士が、江戸に赴任するのを機会に送別の意味で撮ったものです。

グイド・ヘルマン・フリドリン・フルベッキは、オランダから宣教師として派遣され、来日しました。元治元(1864)年8月から幕府の長崎外語伝習所の校長兼教授として、週5日英語や科学を教えた。慶応2(1866)年6月からは佐賀藩設立の長崎致遠館の教師に任ぜられ、多くの人材を育成し、維新後は新政府の顧問格として、諸施策に参画しました。元治元年には、この広い写場は上野彦馬のところになく、スタジオを増築したのは明治2(1869)年と言われています。

いろは丸事件で紀州藩に対して龍馬はどういう交渉を行ったのですか。

いろは丸事件での龍馬の対応をまとめると、次のようになります。

・慶応3(1867)年4月23日衝突。その夜から翌日にかけ、上陸した(広島県福山市)鞆で談判。万国公法で決着をつけることを提案。

・紀州藩明光丸、急用を理由に龍馬たちを残し、長崎へ。龍馬たちも怒り、長崎に追いかけて談判再開。

・航海日誌や談判記録を確保。

・海援隊のメンバーに「一戦交える覚悟を」と激をとばす。重ねて航海日誌や談判記録の保全と確認を命令。

・寺田屋へ一報「ちょっと忙しくなるが心配するな」

・下関の伊藤助太夫(龍馬が家を借りている人)へ「家には誰も近づかないよう見張りをよろしく」

・京都の出版元へ「万国公法」の印刷を依頼する。

・紀州の船長らと交渉。以下の事を要求した。紀州藩は「大きい藩」ということを笠に着て威張っていたが、龍馬たちの言い分がもっともなので、タジタジとなり、病気だといって逃げ回る。

 「土佐の連中を放りだし出港したのはけしからん。」

 「2度も衝突させた責任はどうなるのか。」

 「万国公法ではなく幕府の判断によって決着をつけるとは何事か。」

 「長崎で、海難事故審判に経験の深いイギリスの提督に裁いてもらい、決着をつけよう。」

・土佐藩から参政後藤象二郎か応援に到着、交渉に加わる。龍馬も応援に感謝。後藤がやかましく責め立てるので、紀州藩も薩摩藩五代友厚に仲裁を依頼。ほぼ1か月後の5月28日か29日頃、賠償を支払うことで落着。

・この間、龍馬は世論を味方につけるため、長崎の繁華街で「船を沈めた そのつぐないは 金を取らずに 国を取る」という歌を流行らせた。そのおかげで、長崎の町民たちが海援隊の人たちに、紀州をやっつけろ、と励ましに来るなど大いに効果を上げた。

・いろは丸事件では龍馬は以下にあげる現代の危機管理対策を見事にやっていき、一か月間に上手に展開していて感心させられる。

 「一戦交える臨戦体制」

 「世論操作と情報発信」

 「身内の安全確保」

 「筋を通した交渉」

 「強力な応援体制の確保」

 「交渉の結着点・結着対応などを決める」

龍馬が生前食べたかったものとして軍鶏鍋が挙げられるそうですが、軍鶏鍋が好物なのでしょうか。

龍馬は手紙に食べ物のことを書いていませんので、好物やどこでどんなものを食べたのか、はわかりませんので、言い伝えられていることとして紹介します。

慶応3(1867)年11月15日の夜(暗殺された夜)、中岡慎太郎と話し込んでいて龍馬がそばにいた峰吉に「軍鶏鍋でも食おうか、買うて来てや」といい、使いに出しました。しかし、その直後、龍馬と中岡と下男の藤吉しかいなくなった近江屋の2階に刺客が上がり、3人ともやられてしまします。軍鶏を買いに行った峰吉が戻った時には龍馬は息絶えていました。いつもの店に軍鶏がなく、遠い店まで買いに行った......とも書かれています。『海援隊始末記』をはじめ殆どの本に書いてありますが、これはのちに峰吉が話したことを材料としていると考えられます。

龍馬にとっては「食べそこなった軍鶏鍋」になりましたが、龍馬が中岡の来訪をもてなすため、11月の寒い折から、温まる軍鶏鍋を思いついたのではないでしょうか。龍馬は軍鶏鍋が好物だったという確証はありません。

ロミュラス・ヒルズボロウによる『Ryoma』はどこで買えますか。

『英語で読む坂本龍馬』(上)(下)として(株)ジャパンタイムズから出版されています(ISBN 978-4-7890-1381-9)。

原書の"Ryoma:Life of a Renaissance"(1999年)はインターネットの通販サイトで購入することもできますので、ご利用ください。