龍馬FAQ
FAQ

ワシントン大学の方が書いた坂本龍馬の伝記を教えて下さい。

洋書の原本は以下のものです。

"Sakamoto Ryoma and the Meiji Restoration"

 Marius B. Jansen(著)、1961

 出版社 Columbia Univ. Pr

 ISBN 0231101732

 翻訳本は下記のものです。

「坂本龍馬と明治維新」(マリアス・B・ジャンセン著、平尾道雄、浜田亀吉翻訳、時事出版社、1965年初版発行、ISBN:4788700026)

マリアス・バーサス・ジャンセン博士(1922~2000年)はワシントン大学、プリンストン大学での教授を務めたアメリカ人で、ハーバード大学ライシャワー教授(駐日大使を務めたこともある人)の門下生です。1991年に日本学士院客員会員、1999年に外国人として初めて文化功労者となりました。また、1992年には大阪府が創設した日本文化に関する賞である山片蟠桃賞を受賞しました。

ジャンセン博士が龍馬の研究に着手したのは、おそらく昭和31(1956)年頃かと思われます。彼が生まれ育った環境や成長していくプロセスについて、高知で最も坂本龍馬に詳しい、故平尾道雄氏を訪ね、交友が始まったといわれます。博士は、平成3(1991)年の当館開館時に来高され、記念講演をしています。

亀山社中の構成員は何人ですか、具体的な名簿があれば教えてほしいです。また、龍馬亡き後は、各自どのような半生を歩んだのでしょうか。

亀山社中の正確な名簿はありませんが、その後身組織である海援隊は出身藩もあわせて記録されていますので、これを参考にします。

メンバーは全体で約50人(水夫、火夫含む)です。内訳は以下のとおりです。

〇土佐藩

坂本龍馬、高松太郎(龍馬の甥、のちに坂本直となって龍馬の跡をつぐ)、石田英吉(のち千葉県知事や高知県知事)、菅野覚兵衛(すがのかくべえ、のちに海軍少佐。龍馬の妻お龍の妹君枝と結婚)、長岡謙吉(海援隊書記、龍馬の死後海援隊隊長)、新宮馬之助(しんぐううまのすけ、龍馬と幼馴染、のち薩摩にうつり寺内信左衛門)、沢村惣之丞(さわむらそうのじょう、のち関雄之助、龍馬と共に脱藩し、長崎で薩摩藩士誤殺事件の責任を負って切腹)、など12名。

〇越前

関義臣(せきよしおみ、徳島県知事、山形県知事など務める)、小谷耕蔵(こたにこうぞう)ら6名。

〇越後

白峰駿馬(しらみねしゅんま、航海造船の専門家。アメリカのラトガース大学へ留学、自分で造船会社をつくる)、橋本久太夫ら2名。

〇紀伊

陸奥宗光(むつむねみつ、当時は陸奥陽之助、日清戦争の時の外務大臣として講和条約を締結し、不平等条約の一部を改訂)

亀山社中に関する本を教えて下さい。

以下のものをおすすめします。

『坂本龍馬 海援隊隊士列伝』 山田一郎著、新人物往来社

『ある海援隊士の生涯―菅野覚兵衛伝-』佐藤寿良著(絶版)

『続・ある海援隊士の生涯-白峰駿馬伝-』佐藤寿良著

龍馬は生前にたくさんの手紙を送りましたが、京都から土佐まで、江戸から土佐まで、それぞれ手紙が届くまでどのくらい日数がかかったのでしょうか。また、それぞれ手紙一通分の値段はどのくらいかかったのでしょうか。

京都から土佐まで、江戸から土佐までかかる日数は、郷土史家の広谷喜十郎氏のお話によると、

・至急便(公用便) 4日(昼夜走りっぱなし)、5日(昼夜走りっぱなし)、7日(それよりは少しゆっくり)

・普通便 半月くらい

ということです。

また、他にも

・船に乗る人にたのむ方法

・公用便に便乗させてもらう方法

・大坂、土佐では、定期の船便があり、それにたのむ方法

などがあったということです。

「ささおくり」といって、笹の葉が枯れないうちに送るという至急便もあったそうです。

いずれにしても、1人の飛脚が全部の道を1人で走るのではなく、駅(中継ぎ所)でリレー」をして届けるそうです。夜は灯りをつけて走ります、もっと急ぐものは馬で走ると思いますが、いずれにしても四国へは船で渡らなければなりません。この時間を入れて4,5日とすれば、大変早いことがわかります。

これは一例ですが、幕末に日本を訪れたイギリスの初代駐日総領事であるオールコックは、著書にこう記しています。「飛脚たちは、短距離をへだてて設けてある宿駅で交代し、万一事故に遭う時のことを考えて、いつも二人でゆく。彼らの速度はたいそう速くて、江戸から長崎や箱館へゆくのに、嵐のために川や入り江を渡ることができないというようなことがなければ、約350里(1400km)、すなわち850マイルを9日間で走る。そして、普通は遅れないし、信頼するに足る。(中略)ところで、このようにして長崎まで早便を送ると、費用は普通小判20枚、すなわち6ポンドである。」

明治のオールスターが勢ぞろいしている幕末の有名な写真がありますが、偽物説も多 いようですが、真贋はどうなのでしょうか。

該当する写真は「フルベッキ博士と佐賀藩・長崎致遠館の研修生たち」といわれているものだと思います。結論から言いますと、この写真にかかれている人物の名前も、フルベッキ博士とその子ども以外は、信憑性は極めて低いと思います。

この写真を撮ったのは、上野彦馬です。龍馬も、慶応2,3年のころに上野彦馬のスタジオで写真を何枚かとっていますが、それらと、集合写真の龍馬の姿を見比べてみると、あまりにも違いすぎることがわかると思います。写真そのものは、佐賀藩の青年たちが英語や科学を習っていたフルベッキ博士が、江戸に赴任するのを機会に送別の意味で撮ったものです。

グイド・ヘルマン・フリドリン・フルベッキは、オランダから宣教師として派遣され、来日しました。元治元(1864)年8月から幕府の長崎外語伝習所の校長兼教授として、週5日英語や科学を教えた。慶応2(1866)年6月からは佐賀藩設立の長崎致遠館の教師に任ぜられ、多くの人材を育成し、維新後は新政府の顧問格として、諸施策に参画しました。元治元年には、この広い写場は上野彦馬のところになく、スタジオを増築したのは明治2(1869)年と言われています。

いろは丸事件で紀州藩に対して龍馬はどういう交渉を行ったのですか。

いろは丸事件での龍馬の対応をまとめると、次のようになります。

・慶応3(1867)年4月23日衝突。その夜から翌日にかけ、上陸した(広島県福山市)鞆で談判。万国公法で決着をつけることを提案。

・紀州藩明光丸、急用を理由に龍馬たちを残し、長崎へ。龍馬たちも怒り、長崎に追いかけて談判再開。

・航海日誌や談判記録を確保。

・海援隊のメンバーに「一戦交える覚悟を」と激をとばす。重ねて航海日誌や談判記録の保全と確認を命令。

・寺田屋へ一報「ちょっと忙しくなるが心配するな」

・下関の伊藤助太夫(龍馬が家を借りている人)へ「家には誰も近づかないよう見張りをよろしく」

・京都の出版元へ「万国公法」の印刷を依頼する。

・紀州の船長らと交渉。以下の事を要求した。紀州藩は「大きい藩」ということを笠に着て威張っていたが、龍馬たちの言い分がもっともなので、タジタジとなり、病気だといって逃げ回る。

 「土佐の連中を放りだし出港したのはけしからん。」

 「2度も衝突させた責任はどうなるのか。」

 「万国公法ではなく幕府の判断によって決着をつけるとは何事か。」

 「長崎で、海難事故審判に経験の深いイギリスの提督に裁いてもらい、決着をつけよう。」

・土佐藩から参政後藤象二郎か応援に到着、交渉に加わる。龍馬も応援に感謝。後藤がやかましく責め立てるので、紀州藩も薩摩藩五代友厚に仲裁を依頼。ほぼ1か月後の5月28日か29日頃、賠償を支払うことで落着。

・この間、龍馬は世論を味方につけるため、長崎の繁華街で「船を沈めた そのつぐないは 金を取らずに 国を取る」という歌を流行らせた。そのおかげで、長崎の町民たちが海援隊の人たちに、紀州をやっつけろ、と励ましに来るなど大いに効果を上げた。

・いろは丸事件では龍馬は以下にあげる現代の危機管理対策を見事にやっていき、一か月間に上手に展開していて感心させられる。

 「一戦交える臨戦体制」

 「世論操作と情報発信」

 「身内の安全確保」

 「筋を通した交渉」

 「強力な応援体制の確保」

 「交渉の結着点・結着対応などを決める」

龍馬が生前食べたかったものとして軍鶏鍋が挙げられるそうですが、軍鶏鍋が好物なのでしょうか。

龍馬は手紙に食べ物のことを書いていませんので、好物やどこでどんなものを食べたのか、はわかりませんので、言い伝えられていることとして紹介します。

慶応3(1867)年11月15日の夜(暗殺された夜)、中岡慎太郎と話し込んでいて龍馬がそばにいた峰吉に「軍鶏鍋でも食おうか、買うて来てや」といい、使いに出しました。しかし、その直後、龍馬と中岡と下男の藤吉しかいなくなった近江屋の2階に刺客が上がり、3人ともやられてしまします。軍鶏を買いに行った峰吉が戻った時には龍馬は息絶えていました。いつもの店に軍鶏がなく、遠い店まで買いに行った......とも書かれています。『海援隊始末記』をはじめ殆どの本に書いてありますが、これはのちに峰吉が話したことを材料としていると考えられます。

龍馬にとっては「食べそこなった軍鶏鍋」になりましたが、龍馬が中岡の来訪をもてなすため、11月の寒い折から、温まる軍鶏鍋を思いついたのではないでしょうか。龍馬は軍鶏鍋が好物だったという確証はありません。

ロミュラス・ヒルズボロウによる『Ryoma』はどこで買えますか。

『英語で読む坂本龍馬』(上)(下)として(株)ジャパンタイムズから出版されています(ISBN 978-4-7890-1381-9)。

原書の"Ryoma:Life of a Renaissance"(1999年)はインターネットの通販サイトで購入することもできますので、ご利用ください。