龍馬FAQ
FAQ

龍馬の写真は全部で何枚あるのですか。何歳から何歳に撮ったものが多いですか。また、撮影場所についての定説が出てきた理由はなんですか。

龍馬の写真の枚数を断言することは難しいですが、種類は「6種類」と言えるでしょう。それぞれの写真の違いは、例えば福井で撮影された説のある写真(下記の写真F)は、親しいに人にあげていたものなので、現在は下関市立歴史博物館と東京龍馬会が同じ写真を所有しています。立ち姿のものも、ガラス原板は高知県立歴史民俗資料館が所有していますが、鶏卵紙に焼いたものは2枚以上確認されています(1枚は伊藤家所蔵、もう1枚は行方不明)。鶏卵紙の写真は、親しい人に渡していたので、まだ他にも龍馬の写真が存在しているかもしれません。

以下、便宜上、6種類を次のように表記します。

写真A:立ち姿の写真。桂浜の銅像のモデル(コロジオン湿板と鶏卵紙2枚が確認されている。)

写真B:椅子に座ってブーツを履いている写真(鶏卵紙1枚)

写真C:伊藤助太夫と使用人と撮った3人の写真(鶏卵紙1枚)

写真D:上半身だけの写真(所在不明の鶏卵紙1枚と複写されたと思われるものが3枚)

写真E:海援隊士と撮った写真(所在不明の鶏卵紙1枚)

写真F:縁台に座った写真(鶏卵紙2枚)

撮影された年齢を確定することはできませんが、おそらくすべて慶応元(1865)年から慶応3(1867)年に撮られたものと推測されています。数え年で31~33歳の頃ということになります。

撮影場所についての定説が出てきた理由については、まず、写真スタジオの特徴が出ている写真は簡単にわかります。写真Aは、寄りかかっている台が上野彦馬スタジオの特徴です。また、上野彦馬スタジオには段差があります。写真A、B、Cこれら3種類の写真の手前には、すべて段差が確認されます。写真Dは、服装や髭の具合から写真Aと写真Bと同じ時に撮られたことが考えられているので、スタジオも同じ上野彦馬スタジオを考えらています。写真Eはよく分かっていませんが、長崎で撮った可能性が高いことから、上野彦馬スタジオではないかと考えています。写真Fは、背景に菊の花が写っていることから、秋ごろに撮られたのではないかと思われます。また、額の生え際が少々後退しているようにも見うけられるため、長崎で撮られたものより後で撮られたのではないかと考察されていることから、慶応3年の秋である可能性が高く、福井に行ったときに撮られたものではないかと想像されています。ただし、これは推測の域を出ないものであり、福井説を否定する研究者もいます。

龍馬の年表のほとんどが1858~1861年の間が書いていないのですが、具体的にはどんなことをしていたのですか?

この期間、土佐藩を離れての活動は見られませんが、1861年には、武市半平太の手紙を持って、勤王運動の先頭を走る長州藩の久坂玄瑞のところに行っています。その後、各藩がつぶれても、国がダメになったら何にもならない。そのために志を持つものが、早く行動を起こさないと間に合わない、と言って、翌年(1862年)3月24日、江戸に旅立ちました。

龍馬の歌である「世の人は何とも云えばいえ 我がなすことは我のみぞ知る」は本来はどのような記述ですか。

「世の人はわれをなにともゆはゞいへわがなすことはわれのみぞしる」

原資料は京都国立博物館が所蔵しており、国の重要文化財の一つとなっています。

龍馬の愛刀「吉行」について詳しく教えてください。

吉行(1650~1710年)は、陸奥国中村藩(現在の福島県相馬市)の生まれで、父や兄とともに大坂で修業した後、土佐へ招かれました。鍛冶奉行となり、一町十五代五歩を給せられ東種崎町に住み、近くの九反田東鍛冶蔵(後の開成館敷地)で作刀しました。やがて陸奥守の官命を賜ったため、銘は吉行の他に、土州住吉行や陸奥守吉行などがあります。吉行の刀は新刀銘尽後集に「刀鋒鋭利南国新刀の冠たり。作は地鉄(ぢがね)細やかに匂いありて上手なり」と評価され、切れ味は土佐の刀で最もすぐれていたといいます。

龍馬は、慶応2(1866)年12月、先祖のものを持って国難に臨みたいと手紙を書き、この刀を兄権平から譲りうけることとなりました。権平は山内容堂と会うため土佐を訪れた西郷隆盛にこの刀を預けて、龍馬のもとに届けてもらいました。龍馬はその喜びを慶応3年6月24日、兄権平宛の手紙でも「京都の刀剣家が褒めてくれる」と伝えています。

常に持っていたこの刀は、暗殺された時、床の間にあり、龍馬はそれを取って応戦しました。鞘をはらう間もなく相手の刀をうけましたが、鞘に食い込み、相手の刀の先が額を切り、龍馬は先祖の刀をもって息絶えました。

龍馬の干支はなんですか。

龍馬の生まれた年は、天保6(1835)年です。その年の干支は、乙未(きのとひつじ)なのでひつじ年です。龍馬は干支とは関係ない名前です。

龍馬の生まれた坂本家はもう無いと聞きました。いつ、どうしてつぶれてしまったのですか。

本家の才谷屋は、武士相手に金貸しなどをしていたため、明治維新で武士が滅亡すると、貸した金が戻らなくなり、たちまち没落しました。坂本家(龍馬の生まれた家)は残りましたが、龍馬の兄・権平の跡をついだ直寛(養子)の時代、北海道の開拓をすべく、明治31~32(1898~1899)年にかけ、一家をあげて浦臼(うらうす)に移住しました。その後、一家は釧路や札幌に移り、ご子孫は今も北海道にいらっしゃいますが、ご当主は東京です。

「龍馬」が、最初は「良馬」と書いていたというのは事実でしょうか。

「良馬」という字が使われているのは、勝海舟「坂下良馬」(氷川清話より)、木戸孝允「坂本良馬」(何通かの手紙など)等があります。「龍」は「りゅう」と読むのが一般的で、各数も多いので、「りょう」と読むのが一般的で各数も少ない「良」の字を他の人は使ったのでしょう。

なお、龍馬を「りゅうま」と呼ぶことがありますが、これは明治16(1883)年に発行された、龍馬を主人公にした坂崎紫瀾(しらん)の小説「汗血千里駒(かんけつせんりのこま)」に坂崎がふりがなをうったものが定着したといわれています。

龍馬という名前は一見すると「りゅうま」と読んでしまいます。坂本龍馬の場合、なぜ「りょうま」と読むことがわかったのですか。

慶応3年1月20日の姪・春猪宛の手紙の文末に「正月 廿日夜 りよふより 春猪様」と書かれてあります。「りよふ」は今の仮名遣いでは「りょう」と書くので、「りょうま」となります。

坂本龍馬銅像の懐手の本当の理由はなんですか。

龍馬の懐手については、一般に「鉄砲を持っている」「寺田屋で負った傷を隠している」「万国公法(本)を持っている」という3つの説がよく言われていますが、本当のところはわかっていません。

坂本龍馬はいつ、どこで生まれたのですか。

天保6(1835)年11月15日、郷士御用人坂本八平直足の次男として高知城下本丁筋に生まれました。ちなみに、亡くなったのは慶応3(1867)年11月15日、京都近江屋で、中岡慎太郎といるところを刺客に襲われ、33歳の生涯を終えました。

龍馬が愛用していた銃は今どこにありますか。

龍馬が愛用していた短銃は、紛失と焼失により現存しません。寺田屋事件で使用し、紛失したのが、(1)スミス&ウェッソン銃Ⅱ型(32口径、六連発)です。慶応元年に初めて持った短銃になります。

大正2年の釧路大火で焼失したのは、(2)スミス&ウェッソン第Ⅰ 1/2型ファースト・イッシュ―(五連発)。近江屋暗殺の時も所持していました。

龍馬が19歳の時、江戸に剣術修行へ行って帰ってからの龍馬の職業は何ですか。龍馬は脱藩するまで、どのようにして生計をたてていたのですか。

職業はありません。当時は長男がその家を継ぐので、龍馬の兄権平が、坂本家の家計をにぎっていました。龍馬は「居候」となって、父や兄に養われていました。当時は、長男が家計を継ぐというのが一般慣習だったので、次男以下は居候という身分が多いのですが、そのままでは大変なので、他家に養子にいってその家を継ぐ、剣道などを教える道場を開いて独立する、自分が修得した技術で生計を立てる、などしていたようです。

龍馬は、勝海舟の門下生になってからは、その仕事で収入を得ていました。また、亀山社中になってからは、薩摩藩から3両2分を給料としてもらっていたようです。

龍馬の名前の下に「直柔」とありますが、これは何ですか。また、女性にも、このような名前の下にまた名前をつけるという風習があったのですか。また、この風習はいつまで続いたのでしょうか。

普通、武士とよばれる人たちは2~3の名前を持っていました。

(1)子どもの頃から普段よばれている名 「幼名、通称」=「龍馬」

(2)正式な手紙などの署名に使用する名 「実名、諱」=「直柔」

(3)絵や詩を書いた時などに使用する名 「号」=なし

(4)追われる身のため、隠れ蓑にする名 「変名」=「才谷梅太郎」等

「直柔(なおなり)」とは、戸籍に登録する名前、実名にあたります。武士は元服の時にこの「諱(いみな)」をつけてもらうようですが、龍馬がいつ元服したのかわかりません。

最初は「直陰(なおかげ)」と名付けたようです。慶応元年12月頃までは、「直陰」を使っていたようであり、「直柔」に代わるのはそれ以後のことと思われます。いつ変えたのかは、資料がないので、はっきりとわかりません。

諱を署名した手紙は「直陰」=4通、「直柔」=8通しかないので、一般的にはあまり使わないのが普通だったようです。

「諱」を付けることは、一部の武士、公家の慣習です。女性に付けられることもあったようですが、乙女やお龍には諱はありませんでした。武家、公家制度が廃止された明治には、この風習もなくなったということになります。

龍馬がお龍と出会ったのは、2人が何歳の時ですか。また、龍馬が亡くなった後、お龍は龍馬からの手紙などを燃やしたと本に書いていたのですが、それはなぜですか。

お龍の父・楢崎将作は、安政5(1858)年に勤王運動の取り締まり(安政の大獄)で捕まり、翌年釈放されましたが、文久2(1862)年に病死します。これ以後、お龍の母が生計を立てるため、志士たちの隠れ家だった方広寺へ、食事などの世話係として通っており、お龍も方広寺に出入りしていました。文久3(1863)年、そこで龍馬とお龍は出会ったと考えられています。龍馬29歳、お龍23歳のときです。お龍の回顧録によると、元治元(1864)年に龍馬と結婚したとありますが、龍馬の手紙でお龍のことを妻と明記するのは慶応2(1866)年12月4日の手紙からです。慶応元(1865)年9月9日の姉乙女にあてた手紙の中で、龍馬はお龍に渡すものとして、小笠原流の礼儀の本、和歌の本、乙女姉さんの帯か着物をねだっています。慶応2(1866)年1月23日夜、薩長同盟を結んだ後、寺田屋でくつろいでいた龍馬が伏見奉行所の人らに取り囲まれた時、それを早く知ったお龍が風呂から飛び出して龍馬に「急」を伝えたため、龍馬は捕まらずに逃げることができました。この事件の後、龍馬は命の恩人となったお龍と結婚したようです(慶応2年3月頃)。龍馬が死んだ後、土佐にきたお龍は坂本家に入りますが、周りは知らない人ばかりで、暮らし方も違うことから、次第に嫌になり、現在の芸西村(高知市から東に約30km)に嫁いできていた妹君枝のところに立ち寄った後、土佐を去りました。新しい気持ちで立ち直ろうと手紙を焼いて、過去を清算したかったのではないでしょうか。

龍馬の死後、遺体はどのように、どこへ搬送されたのですか。また、遺族はどう過ごしたのでしょうか。

京都市東山区の霊山(りょうぜん)墓地(現在の護国神社の裏山)に葬られました。この時、海援隊や龍馬を支持する仲間たちが、暗殺現場の河原町三条下ルから葬列を組み、墓地へ向かったといいます。なお、墓地には龍馬の他、中岡慎太郎、下僕藤吉のお墓も並んでいます。

遺族は、妻お龍が龍馬暗殺当時下関にいましたが、4か月余りの後、慶応4(明治元=1868)年4月から土佐の坂本家に行きました。土佐には翌年夏まで1年余りいましたが、生まれ故郷の京都に帰った後、江戸に出ます。その後、西村松兵衛と再婚します。お龍は横須賀で死去、お墓は同市信楽寺(しんぎょうじ)にあります。

坂本龍馬はアメリカに行ったことがありますか。

龍馬は、アメリカはもちろん、海外へは行った記録は、今のところ見つかっていません。

川原塚茂太郎宛書簡には、海外に対する思いが次のように語られています。

「(前略)其文にも勢によりては海外に渡り候事も、これ有るべき故猶さら生命も定兼候と。(後略)」この書簡は、義理の兄(兄嫁の弟)に出した書簡ですが、兄・権平に自分(龍馬)が土佐へ帰ることは期待せず、早く養子を迎えるように伝えてほしいという思いを書いた手紙です。その中で、自分は海外へ行くかもしれないとほのめかしています。

龍馬の身長、体重はどのくらいですか。

残っている紋服などから、以下のように想像されます。

 身長:173~179cm 体重は分かりません。

 紋服の寸法は下記のとおりです。

 着丈:149cm、肩巾:32cm、袖丈:50cm、袖巾:33.5cm、裄丈:65cm、前巾:26cm

 後巾:30.5cm

龍馬はいくつ変名を使っていたのですか。

「西郷伊三郎(さいごういさぶろう)」(この名前で手紙を送ってほしいと家族に依頼)

「才谷梅太郎(さいだにうめたろう)」(手紙の署名として使用)

「取巻の抜六(とりまきのぬけろく)」(慶応2年11月、手紙の署名として使用)

「大浜涛次郎(おおはまとうじろう)」(慶応3年5~6月、手紙の署名として使用)

「高坂龍次郎(たかさかりゅうじろう)」(慶応3年2月、手紙の中に登場)

「自然堂(じねんどう、または、じぜんどう)」(下関・伊藤家の一室の名前、龍馬の号のようなもの)

以上、変名5種類、号のようなもの1種類となります。

坂本龍馬の髷(まげ)は他の人々に比べて平たいようですが、身分やその藩によって色々あるのでしょうか。

通常、武士は、月代(さかやき)といって頭の中心部を削り、両端に残った髪の毛を真ん中の後ろの方の髪の毛と束ねて元を締め、その先を頭の上にのせて髷にします。龍馬は月代を作らず、髪全体を後ろに束ねてしばり、そのままにしているか、束ね紐で髷をしているか、のどちらかで「総髪(そうはつ)」と言っています。龍馬は浪人という自由な身なったので、髷を自由にしていたのではないでしょうか。なお、髷は藩によっての流行があり、土佐藩では月代を細く削るのが流行でした。また、身分でも違いがありました。

龍馬の真実を知る、お勧めの本があれば教えてください。

龍馬研究の本は色々出版されています。その中で次の4冊をおすすめします。

 ・土居晴夫『坂本龍馬の系譜』(新人物往来社)

 ・山田一郎『坂本龍馬-隠された肖像-』(新潮社)

 ・平尾道雄『坂本龍馬のすべて』(高知新聞社)

 ・新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』(新人物往来社)

さらに挙げるとすれば、下記の3冊です。

 ・池田敬正『坂本龍馬』(中公新書)

 ・平尾道雄『坂本龍馬 海援隊始末記』(中公文庫)

 ・飛鳥井雅道『坂本龍馬』(福武書店)

他にもよい研究書がたくさんあります。ぜひ、色々な本を手に取ってみてください。

龍馬に子どもはいましたか。

龍馬はお龍と結婚しましたが、子どもはいません。他の女性との間にも子どもはいません。明治4年8月に龍馬の姉、千鶴の息子「髙松太郎」が朝廷の沙汰により、養子として坂本龍馬の跡目を相続し、坂本直と改名しました。

龍馬は人を切ったことがありますか。

龍馬が人を切ったという記録は、海援隊士・関義臣の回顧録に出てきます。他人の妻と関係を持った水夫を斬ったというものです。また、寺田屋で戦った時には、ピストルで応戦し、奉行所の役人を撃っています。刀は脱出の時に使ったようです。「寺田屋から逃げる時、裏の家の戸や建具などを槍や刀で壊して通れるようにした。なかなか丈夫な家で壊しにくかった...」と龍馬が兄の権平宛に手紙を書いています(慶応2年12月4日)。

龍馬の血液型は何型ですか。

わかりません。

血痕のある屏風、掛軸(京都国立博物館蔵)についている血痕を調べれば、わかるかもしれませんが、実際には調べていません。それらの血痕が本当に龍馬の血であるという証明は、墓を掘り起こして骨や毛髪などの残っているものと照合しない限り断定できないのです。

坂本龍馬の家紋の名前を教えてください。

「組み合い角に桔梗紋(くみあいかくにききょうもん)」といいます。この家紋は土岐氏の系脈に多い桔梗紋の一種で、単弁の桔梗紋です。

なお、坂本家6代目・坂本直益の死後、13年後に亡くなった直益の妻・さわの墓についているものが、確認される最初のものになります。直益までは「丸に田紋」を用いていました。直益の長男・直海を分家させて、郷士坂本家が誕生しますので、その際、郷士坂本家用の家紋を作ったと考えることもできますが、断定はできません。

坂本龍馬の名前の表記が「龍馬」と「竜馬」とあるのはなぜですか。

当館では、龍馬自身が「竜」の字を用いたことは一度もないので、「竜馬」という表記は絶対にしないようにしています。しかし、新字体として制定されているのは「龍」ではなく「竜」の方なので、教科書や新聞などでは、「竜」の字を使うことがあると思います。当館はこだわって「龍馬」と表記していますが、歴史上の人物すべてを旧字で表記することは不可能ですので、他の人物の場合は新字体で表記することもあります。

「竜馬」が一般的になったのは、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の影響だと思います。司馬氏は「小説の中では僕のリョウマを動かすのだから竜馬にした」と語っておられたそうで、実在した龍馬と架空の竜馬を漢字によって区別したそうです。

龍馬は靴や最新式の拳銃を所持していたそうですが、どのようにして彼の手に渡ったのでしょうか。また、拳銃の使い方は、外国人から教わったのですか。それとも書物で読んだのか、日本にあった鉄砲と同じような使い方だったのでしょうか。

龍馬の所持品についてですが、靴も拳銃もいつどこで入手したか、明確には分かりません。靴は、長崎で入手した可能性が一番高いのですが、残念ながら資料としては残っておりません。また、拳銃は、薩長同盟締結後、寺田屋で襲われた時の様子を木戸孝允に知らせた書簡(慶応2年2月6日)の中で、「かの高杉より送られ候ピストールを以って打ち払い」とありますので、高杉晋作から貰ったものだと分かります。しかし、その時の戦闘の最中に弾倉を落としてしまい、拳銃もその場に捨てたようです。高杉晋作には、薩長同盟締結前の慶応元(1865)年に、下関へ行った時に会ったと考えられますので、その時にピストルを送られたのではないかと推測されています。その後、龍馬は寺田屋で受けた傷の保養を兼ねて、薩摩へ新婚旅行に行きますが、「短筒(ピストル)をもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかりき。」(慶応2年12月4日)と乙女姉さんに報告していますので、すぐに代わりの拳銃を入手した事になります。その入手先は残念ながら分かりません。拳銃の使い方をどこで習ったかもはっきりとは分かりません。

龍馬は、江戸での剣術修行中に、佐久間象山について砲術を習い、土佐でも徳弘菫斎について砲術を習っていすので、大砲や銃についての知識は持っていたようです。しかし、短銃まで習っていたかは分かりません。ちなみに、1867(慶応3)年6月24日乙女・おやべ宛書簡には、妻のお龍がピストルを練習している様子が、「此頃ピストルたんぽうは大分よく発(うち)申し候」と報告されています。

龍馬が近江屋で中岡慎太郎をいたところを刺客に襲われ、暗殺されますが、その際の最後の言葉を教えて下さい。刺客に襲われ深手を負い、もう駄目だと自覚した際の言葉はなかったのですか。

龍馬はほぼ即死でしたが、一緒に襲われた中岡慎太郎は龍馬より2日長く生きており、意識もはっきりしていましたので、襲われた時の様子を駆けつけた人に語っています。その話をまとめたものの中から、龍馬の最期の言葉を抜き出してみます。

まず、『谷干城遺稿』(明治45年)ですが、「すっと起上がって行燈を提げて階下段の傍まで行った。そして其処で倒れて、石川(中岡の変名)刀はないか、と二声三声言ふて、それでもう音が無い様になった。」とあります。

次に、『男爵安保清康自叙伝』(大正8年)ですが、「其安否ヲ問へバ彼曰く、我既ニ脳ヲ斬ラレタリ、助命ノ望ナシト一言シ、伏シテ復ビ声ナシト。」とあります。

最後に、『伯爵田中光顕自叙伝』(大正15年)ですが、「(前略)其時坂本は僕に向ってモウ頭を遣られたから駄目だと言ったが僕も是位遣られたからとても助かるまい(後略)」とあります。

以上、三人の資料を紹介しましたが、三人とも龍馬と慎太郎の遭難直後に駆けつけていますが、かなり信用できる話だと考えらています。

龍馬の身長はどうしてわかったのですか。

龍馬の身長についてですが、明治以後に龍馬の身長について語っている人は3人います。

3人によると、

田中光顕(元陸援隊士):5尺7寸(173cm)

関義臣(元海援隊士):5尺8寸(176cm)

信太歌之助(元幕臣):5尺9寸(179cm)

となっています。

さらに、京都国立博物館には龍馬の紋服が所蔵されており、その大きさと、現代人の標準寸法とを比較してみると、170cmより少し大きいくらいではないかと推測できます。龍馬の身長をはっきりと確定させる事はできませんが、いずれにしても平均身長150cm台の時代に、170cmを越えていたので、かなり大柄な人物だといえます。

龍馬が飲んでいたお酒の特徴などわかりますか。

資料が残っていないので詳細は不明です。

当時から現在まで続いて造られている酒は、佐川町の「司牡丹」があります。この名称は、佐川町出身の田中光顕が命名したものです。佐川町出身の勤王家はたくさんおり、龍馬ともつながりが深かったので、龍馬も現在の「司牡丹」にあたる酒を飲んだ可能性はあります。

ちなみに、坂本家の本家である才谷屋は、一時期、酒造業もしていました。才谷屋の酒造権利は、後年「司牡丹」が経営拡大のため買い取っています。なお、詳しくは、郷土史家の広谷喜十郎氏によって『高知県酒造史』にまとめられています。

龍馬は誰に殺されたのですか。

龍馬暗殺については、「京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)ら7名」の説が現在では最も有力視されています。しかし、証言者である(1)今井信郎(2)渡辺篤(3)中岡慎太郎の証言が食い違っているため、確実なことがわかりません。なお、今井は3回証言していますが、一貫性がありません。また、中岡慎太郎の最期の言葉を後世に伝えた人が3人いますが、この人たちの言葉にも統一性がありません。そして、証拠物件や文書には、新選組説や薩摩藩が黒幕だと考えられるものもあり、これらのことが謎を深める大きな要因になっています。現在のところ、実行犯や黒幕を断定できる決定的な資料はありません。

龍馬は梅毒にかかっていたのですか。

高知出身の思想家・幸徳秋水は、自由民権家の中江兆民に師事しており、その兆民の事績をまとめた著書『兆民先生』の中で、兆民が龍馬のことを「其額は梅毒の為抜上がり居たり」と言っていた、と書いていますが、梅毒で髪が抜けることはないようです。兆民以外で、龍馬のことを梅毒に罹患したと語っている人はいない上に、兆民自身が龍馬と特に親しかったわけでもないので、兆民の勘違いということは十分に考えられます。

『英将秘訣』と龍馬の関係を、今わかっている範囲で教えて下さい。

『英将秘訣』は、大正3(1914)年6月に発行された千頭清臣著『坂本龍馬』ではじめて紹介されたものです。当時は、確信はないものの、龍馬が語ったものだと信じられていたようです。その後、研究が進み、おそらく平田派国学者志士グループの中に生まれたものであろう、と推定されています(平尾道雄著『新版 龍馬のすべて』1985年、高知新聞社発行)。『英将秘訣』は、1863(文久3)年におきた足利将軍3代の木像梟首事件の際に、会津藩士広沢安任によって押収されたものです。その広沢の手記によると、『英将秘訣』の作者は龍馬ではなく、平田派の学者と考える方が無難であり、現在では龍馬とは無関係とする説のほうが大勢を占めているようです。現代では、龍馬は英雄史されおり、『英将秘訣』の中から格好良い言葉(「世に生利を得るは事を成すに在り」、「衆人皆善を為さば、我独り悪を為せ」など)だけをとって、さも龍馬が言った言葉のように書いている書物もありますが、『英将秘訣』には非常に危険な思想を含んだ言葉(「人を殺す事を工夫すべし。刀にではケ様のさま、毒類にては云々と云事をさとるべし。乞食など2,3人ためし置くべし。」など)もあり、龍馬の言葉とは思えないものも多くあります。