龍馬FAQ
FAQ

中岡慎太郎の像はどの方向を向いて立っているのですか。その理由はなぜですか。

中岡慎太郎の像は南向きに立っています。桂浜の龍馬の方に向いて立っているといわれますが、二つの銅像は向き合っていません。もし、そうするには、かなり北西を向かせる必要があります。そうなると、銅像の顔が陰になる時間が長くなるので、避けたのだと思われます。

海援隊・陸援隊の活動、あるいは役割について教えて下さい。

海援隊は土佐藩に属する商社で、物を運んだり、商売をしたりしていますが、いざという時は、土佐藩を船で応援する役目もあります。

一方、陸援隊も土佐藩に属する集団で、平時の諜報活動と、非常時には陸軍として活動するはずで、倒幕の戦いに参加することを想定していました。しかし、隊長の中岡慎太郎が生きている間に実戦は行われず、慎太郎の死後、副隊長の田中光顕を中心として、高野山で挙兵し、戊辰戦争に参加していきました。

龍馬は、仁井田の川島家や坂本山の田中家によく遊びに行った、とありますが、両家は坂本家とどのようなつながりがあったのでしょうか。また、そこまでの距離や子どもの足でどのくらいの時間がかかったのでしょうか。

「川島家」は龍馬の二人目の母(継母)の伊与の里にあたるところで、坂本家とは前々からつきあいのあった家で、伊与が後添えとして坂本八平の後妻となったのもその縁からです。当時の川島家当主の伊三郎は「ヨーロッパ」という呼び名もあったくらいの外国通で、世界地図など海外の資料を豊富に持ち、龍馬もそれを見るのを楽しみによく通ったといわれています。高知城下からその辺りまで、手漕ぎの船で30~40分くらいでしょうか。

田中家は坂本家の山や領知の管理をしていた人で、当主は当時良助といい、龍馬より16歳年上でした。多趣味な人で鉄砲も扱い、龍馬のよき兄貴分だったでしょう。萩の久坂玄瑞に会いに行く文久2(1862)年10月14日、ここで旅費として2両借りたことが今も残っている証文で明らかです。

龍馬の手紙で「おやべ」にあてたものがありますが、それは乳母のことだと説明するものもあれば、春猪だというものもありますが、どちらが正しいですか。

春猪=おやべ、が正解です。

「おやべ」は、元治元(1864)年、龍馬が30歳の時に子どもができています。ということは、ある程度若い年齢ということになります。慶応元(1865)年9月7日には、「最早、風が強くなってきたので、南町にいる乳母に何か綿の物を送ってやってほしい」と家族に頼んでいることから、乳母は高齢者ではないかと想像できます。したがって、「おやべ=乳母」は考えられません。

また、使用人だとすると、西の部屋の縁側で日向ぼっこをして、猫を抱いて大口開けてゲラゲラ笑っているという龍馬の手紙の表現と合いません。そんなにのんきな、甘やかされた使用人はいないはずなので、「おやべ」は使用人でも乳母でもないことになります。

さらに、アバタがあって、白粉を塗れ、と龍馬によく言われます。これは「春猪」のところでも出てくるので同一人です。

岡田以蔵と龍馬の関係を教えてください。

岡田以蔵は龍馬より3歳年下で、天保9(1838)年、現在の高知市北部江の口村に生まれました。土佐藩の郷士で、武市瑞山に剣術を習い、その後江戸に出て、武市も学んだ桃井道場に入門しました。以後は、文久元(1861)年に武市を党首として結成された「土佐勤王党」に入り、武市の忠実な部下となりました。文久2(1862)年、江戸に出ると、勤王運動に反対する者に対し人斬りをはじめ、「人斬り以蔵」と人々に恐れられました。文久3(1863)年には、神戸の海軍塾にいた龍馬と交流があり、龍馬が最も尊敬し、師でもある勝海舟の暗殺を以蔵が未然に防いだこともありました。

その後、幕府の力が強くなるとともに以蔵も狙われ、「八月十八日の政変」後の勤王党弾圧で、元治元(1864)年土佐藩によって捕らえられ、厳しい拷問を受けました。そして慶応元(1865)年閏5月、28歳のとき、武市瑞山と同じ頃に処刑されました。

お龍が龍馬の死後、高知の龍馬の実家で暮らしていたのに長続きしなかった理由はなぜですか。また、お龍は黒髪が美しいといわれていたそうですが、龍馬の法事で髪を切る前はどのくらいの長さだったのですか。

龍馬の死後、約3か月(12月~3月)を、長州の三吉慎蔵の家で過ごし、慶応4(明治元)年3月、土佐の坂本家に来ます。お龍の気性や、坂本家のお龍に対する見方が厳しかったとか、色々ある中で嫌気がさし、芸西村に嫁いでいた妹(君枝)のところに立ち寄り、手紙などを整理し、一年足らずで京都に戻りました。

お龍の髪の長さはわかりません。

河田小龍は藩の絵師とありますが、藩にはお抱えの絵師がいたのですか。

河田小龍は土佐藩の船の仕事をする役人でした。藩のお抱え絵師、つまり御用絵師ではありませんが、藩の仕事で反射炉を描くため、薩摩に出張したこともあります。

ジョン万次郎は鎖国中なのに、どうして帰国できたのですか。河田小龍とはどうして会うことができたのですか。

1851~52年頃、鎖国体制はやや穏やかになっていたと思われます。最初に琉球(沖縄県)に上陸したのも、その辺の事も考えてのことだと思います。琉球での取り調べで、万次郎が船の知識や、アメリカの事など、当時未知の世界だったことを詳しく知っている貴重な存在であることがわかり、そのことが伝えられた上で、薩摩でも調べを受け、さらに長崎でも吟味を受け、1852年に土佐に戻ります。当時、小龍が蘭学を学んでいたこと、新しい事に関心を持っていたことから、小龍に預けられたかと思われます。

自分の墓に「坂本龍馬室」と記すほど、龍馬を愛していた千葉佐那について教えて下さい。彼女の情報はとても少ないので、詳しく知りたいのです。

龍馬は19歳の時に、江戸に剣術修行に出ます。北辰一刀流の千葉定吉の千葉道場に入門し、その千葉家の長女佐那に出会い、恋心も持ったようです。乙女姉さんへの手紙にも、佐那のことを書いています。「この人は佐那といいます。今年26才で、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀(なぎなた)もでき、力は普通の男より強い。うちに前居たぎん(*奉公人か)くらいですよ。顔形も私の初恋の平井加尾よりもっと美人です。お琴を弾き、絵も上手、それに、静かな人です。平井にかわって、今一番好きな人。」と紹介しています(文久3年8月14日)。この頃までは千葉道場にも出入りし、佐那とも会っていたと思いますが、その後、勝海舟と共に神戸の海軍塾づくりに精を出し、神戸、長崎と移り、慶応元年には亀山社中を開くなど、龍馬の活躍の舞台が江戸から遠く離れてしまったからか、縁が切れてしまいました。それでも、佐那は独身を通し、「私は龍馬と婚約していた......」と話していたそうです。「私は心を定めて良い縁談を断り、ただひたすら坂本さんを待ちました」と一生龍馬を慕って、他界した佐那の墓石(自然石)の裏には「坂本龍馬室」と刻んであります。

山梨県甲府市の日蓮宗清運寺に千葉佐那の墓があります。もともと上野の谷中にあったものを、交際のあった自由民権運動家の小田切謙明の妻・豊次が無縁仏にならないようにと自分の住む甲府に分骨して埋葬したものです。

龍馬のお葬式で、お龍は何をしましたか。

お龍は龍馬が暗殺されたとき、下関の伊藤助太夫邸に預けられていたので、お葬式には出席していません。

お龍が、西村松兵衛と再婚した時期はいつですか。

お龍の再婚時期は、明治18(1885)年となっている本が多いのですが、実際には明治8(1875)年に西村松兵衛と入籍したようです。原本を確認したわけではありませんが、戸籍が資料として紹介されているようなので、信ぴょう性は高いと思われます。一方で、入籍が明治8年というだけで、それ以前から結婚していた可能性は否めません。ただし、龍馬が死んだ直後のお龍は、長州の三吉慎蔵宅や、高知の龍馬の実家、妹・君枝の嫁ぎ先である菅野覚兵衛宅などを転々としていたので、龍馬がなくなった直後に再婚したということはありません。

お龍の再婚相手である西村松兵衛は、近江の蒲生郡金田村に弘化3(1846)年生まれ、お龍より5歳年下でした。お龍とは明治7,8年に知り合ったという説もあれば、寺田屋に出入りしていたころに知り合ったという説もあり、はっきりしません。お龍の母と松兵衛の母が知人同士であったという説もありますが、これも確かではありません。また、松兵衛は横須賀に出ますが、横須賀海軍の御用商人であったという説もありますが、これも確証はありません。

松兵衛とお龍は、お龍の妹・光枝の子どもを養子として迎えますが、18歳で亡くなったそうです。

宮地佐一郎氏の『龍馬百話』によると松兵衛は「背のすらりと高い、面長の、商人上がりの温厚な人であった。どっちかと言えば無口な方で、お世辞も言わなければ、おべつかも使わない。めったに怒った顔を見せた事がないという男」だったそうです。

(参考:近江歴史回廊倶楽部、http://ohmikairou.org/col328.html 近江八幡市立博物館長の聞き取り話が基となっている)