龍馬FAQ
FAQ
龍馬の生家はどこですか。
龍馬の生家があった場所は、高知市上町(かみまち)1丁目です。はりまや橋から約1.5km西です。
現在、吉田茂元首相の筆による「坂本龍馬先生誕生の地」という碑がたっています。生家は戦災で焼けて跡形もありません。今は病院がたっています。
坂本家のご先祖様は明智家と何かつながりがあるのでしょうか。坂本家は、明智光秀の娘婿の明智秀満の末裔という伝承を本で読みました。本能寺の変後、土佐に逃れ、光秀の居城の坂本城の地名「坂本」を姓にして帰農し、その10代目が龍馬の兄権平であり、坂本家の桔梗紋は明智家に由来するとのことでしたが、本当でしょうか。
そのような言い伝えがあり、多くの伝記書や研究書で「明智後裔説」が紹介されています。
明智左馬之助光俊の子孫か?ということについては、明治16年に坂崎紫瀾が龍馬を主人公にした『汗血千里駒』という本を書いており、これが「明智後裔説」の初出の書物になります。その中の一説に「そもそも坂本龍馬の来歴を尋るに、其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして、江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め、一旦美濃国関ケ原の辺りにありしが、其後故ありて土佐国に下り遂に移住て」とありますが、坂本家の資料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていないため、両家の関係はわかりません。しかし、言い伝えとして、坂本家の中で受け継がれているようですから、資料がないことを理由に、否定することもできないと考えられます。
南国市にある坂本家初代の太郎五郎の墓には「弘治永禄の頃(1555~70年)畿内の乱を避け、土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とあります。これを正確なものと考えると、応仁の乱(1467~77年)以降混乱を極める畿内を避けて土佐に避難してきたと考えられます。
長宗我部元親の妻と、長男・信親の妻は、二人とも石谷氏の娘で、石谷氏は明智家と深い繋がりがあります。このことから考えても、坂本家が明智家と血縁関係があったならば、長宗我部元親を頼って、土佐に来る可能性もありえます。ただ、その場合、才谷村のような山間部ではなく、平野部の一定の領地を与えられてもおかしくはないことから、明智後裔説は疑問視されています。