龍馬ゆかりの地
Place of connection

間崎滄浪邸跡

住所 高知市北本町1丁目5-2
アクセス JR高知駅下車、徒歩7分

文久元(1861)年土佐勤王党に加盟し、江戸に出てからは多くの志士との交流もあった。龍馬とは文久2(1862) 年8月26日江戸で逢い会飲しながら時局を論じたこともある。

吉田東洋記念之地

住所 高知市追手筋2丁目1
アクセス 電車堀詰下車、徒歩5分

吉田東洋は山内容堂に抜擢され藩の仕置役となる。江戸で山内家の親戚の者を接待中に相手の無礼に我慢できず、その頭を叩いたため一時免職となるが、復帰後はその手腕を振るった。

武市瑞山(半平太)殉節地

住所 高知市帯屋町2丁目5-18
アクセス 電車大橋通下車、徒歩2分
碑の両脇にかけての説明には、「武市小楯 通称は半平太瑞山と号す 文政十二年九月長岡郡吹井村に生まれる(中略)慶応元年閏五月十一日この地に割腹す時に年三十有七」と、高知市文化財保護協議会の撰文だ。

山内容堂公邸跡

住所 高知市鷹匠町2丁目4
アクセス 電車県庁前下車、徒歩3分

容堂は土佐藩15代藩主だ。嘉永の黒船来航頃まではその才幹を発揮できなかったが、以後雄藩の大名とし、幕末には四賢公の一人と称せられる代表的藩主にまでなった。

板垣退助誕生地

住所 高知市本町2丁目3-18
アクセス 電車大橋通下車、徒歩2分

龍馬と板垣との接触は晩年のことで、慶応3(1867)年9月24日、龍馬がライフル銃を積んで浦戸入港の時、渡辺弥久馬宛の龍馬の手紙の中に「蒸気船を以て本国に帰申候(略)後藤参政はいかがに候や、(略)乾(板垣)氏はいかがに候や。早々拝顔の上、万情申述度」と板垣の名も出ている。